菅前総理が明かす安倍元総理との“最後の会話” 一番の思い出は「二十数年前にもらった電話」
国際社会を相手に外交の枠組みを作り上げる政治家
〈安倍元総理といえば「地球儀を俯瞰する外交」を標榜し、第2次政権以降に訪れた国・地域は延べ176カ所にも及ぶ。
安倍元総理の外交手腕を間近で目にしてきた菅氏は、この“安倍外交”をどう評価しているのか。〉
安倍さんの外交はうまかった。たとえロシアのプーチン大統領を前にしようが、アメリカのオバマ元大統領を相手にしようが、全く物おじしなかった。それでいて、たちまち相手に胸襟を開かせてしまう。
安倍政権では、特定秘密保護法、国家安全保障会議の設置、平和安全法制と立て続けに安全保障に関する重要政策を実現させましたが、やっぱり日米同盟に対しての思い入れが非常に強かった。日米同盟を機能させることによる抑止力をよく理解している人でした。
さらに安倍外交の業績としては、日米豪印の4カ国の協力枠組みである「クアッド」をまとめ上げたことも大きいでしょう。
実は、アメリカは当初この枠組みにあまり乗り気ではなかったんです。ただ、安倍さんが「自由で開かれたインド太平洋」をキーワードに熱心にアメリカを説得し、実現にこぎ着けたという経緯がありました。
国際社会を相手にこういう外交の枠組みを一から作り上げることができる政治家なんて、これまでの日本にはいませんでした。だからこそ、安倍さんが亡くなった後、各国の首脳からこれだけお悔やみが寄せられているのでしょう。
岸田総理には今回の事件後、早々に国葬を執り行うとの決断をしていただきましたが、外交的な成果に鑑みても大変良かったのではないかと思います。
最後の会話
〈安倍元総理が亡くなってから約1カ月。未だ失意の底にある菅氏に、安倍元総理との一番の思い出を挙げてもらった。〉
安倍さんが亡くなってからいろいろなことを思い出しました。
官房長官として仕えた日々。
私が総理・総裁に就任したときの“菅ちゃんで良かった”という言葉。
安倍さんに相談に行くと、いつだってフランクに“菅ちゃんの思う通りにやればいいよ”“いつも通りで大丈夫だよ”と笑いながらアドバイスしてくれたこと。
最後に安倍さんとお会いしたのは7月1日、場所は名古屋駅でした。お互い参院選の応援で、私は神戸に、安倍さんは三重に向かう途中。忙しい合間を縫って安倍さんが“菅ちゃんがいるって聞いたから”と待合室にいた私を訪ねてくれたんです。その時は本当に立ち話くらいしかできませんでしたが、選挙情勢を確認して“油断せずにやれば安定した政権になる”と、そんな話をしましたね。
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