菅前総理が明かす安倍元総理との“最後の会話” 一番の思い出は「二十数年前にもらった電話」

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最後にかけた言葉は

〈安倍元総理が運び込まれた奈良県立医科大学附属病院までは、京都駅で近鉄特急に乗り換えても約1時間かかる。昭恵夫人が近鉄特急で病院に向かったのに対し、少し遅れて京都駅に到着した菅氏は車で病院に行くことになった。〉

 私が京都駅に到着したのが16時頃。病院までは車でも1時間ほどで着くということだったのですが、運の悪いことに、高速道路で落下物による渋滞に巻き込まれてしまった。結局、病院に到着したのは、18時過ぎのことでした。

 病院へ向かう途中も情報はずっと錯綜(さくそう)していました。ただ、ある有力な筋から、安倍さんが17時3分に息を引き取られたという連絡が入っていました。

 病院では、まず昭恵さんにお会いし、検視が終わるのを待って20時頃に安倍さんとようやく対面することができた。司法解剖の前でしたから本当に普段通りのお顔で、眠っているだけのように見えました。

 対面できたのはほんの数分でしたが“本当にお世話になりました。ありがとうございました”と声をかけて病院を後にしたんです。

焼鳥屋で3時間説得

〈菅氏は、12年9月に行われた自民党総裁選に安倍元総理を担ぎ出した中心人物である。安倍元総理が、石破茂元防衛相との決選投票を制し、総裁に返り咲いた背景には、菅氏による必死の説得があったという。〉

 当時はまだ民主党政権でしたから、安倍さんの周囲でも“総裁選に出るのは政権を奪取してからの方がいいのではないか”という意見ばかりでした。それに、第1次政権が、世間から見ると放り出したような形でしたから、安倍さんもそれを非常に気にしておられた。さらに派閥内では町村信孝さんが出馬されるという話もありましたから、あくまで出馬には慎重な姿勢。ただ、私はずっと“安倍さんにはもう一度総理をやってもらいたい”と思っていましたし、勝算もあったんです。

 総裁選では街頭演説や討論会があり、マスコミからも注目されますから、「安倍晋三」という政治家を新たに国民に認識してもらえる最高の“ひのき舞台”になると思った。それに安倍さんの姿をもう一度見てもらえさえすれば党員や国民の理解を得られるだろうことは、全く疑っていませんでした。だからこそ、私は出馬を迷う安倍さんの背中を押し続けたんです。

 最後には私が銀座の焼き鳥屋へ誘って、二人で焼き鳥を食べながら3時間。安倍さんはまだ出馬を決めかねている様子でしたが、私が“こんなチャンスはありませんよ”と説得し続け、3時間後には首を縦に振ってくれました。

 その後は総裁選、年末の総選挙を経て第2次安倍政権の発足と慌ただしく時間が過ぎていきましたから、二人きりで食事をしたのは、あの焼き鳥屋が最後になってしまいましたね。

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