【鎌倉殿の13人】「あんた、やるな」と言わしめた策士「りく=牧の方」の生涯
畠山重忠の乱
時政と牧の方は北条義時と弟の時房に畠山重忠に謀反の疑いがあると告げ、畠山氏討滅の相談をしたが、2人の息子たちは反対する。重忠が謀反を企むとは思えないと。
時政夫妻は牧の方の兄・大岡時親を義時のもとに遣わし、謀反は事実なので何としても畠山を打ち取れと伝える。そして時政は畠山重保を鎌倉におびき寄せ、三浦義村を使ってこれを打ち取らせた。
こうなると、義時も後には引けない。鎌倉に向かっている畠山勢を迎え撃ち、重忠の首を取った。しかし、畠山勢はわずか134騎。謀反を企む数ではない。
畠山追討は、明らかに時政と牧の方の陰謀だった。これをきっかけに、時政の子である政子と義時は、時政と牧の方を見限ったとされている。御家人たちの時政夫妻に対する反発も、決して軽微ではなかった。
将軍の首を挿げ替える?
その2カ月後、今度は時政と牧の方が、将軍の実朝を殺害して平賀朝雅を将軍とする奸謀(かんぼう)が発覚。政子は三浦氏や結城氏らの御家人を時政邸に派遣し、将軍・実朝の身柄を確保して義時の屋敷に移した。事実上のクーデターだ。時政は潔く出家し、翌日には牧の方とともにかつて暮らした伊豆の北条郡に引き上げたという。
この事件は、権力闘争に取り憑かれた時政の暴走、あるいは年老いて判断力を失った時政を後妻の牧の方が自由に操った挙句、政子と義時によって野望を砕かれて失脚した事件としてこれまで描かれてきた。
しかし、自らが将軍の座に就けた実朝を殺害してまで、娘婿の平賀朝雅を将軍とする必要があったのだろうか。実朝の乳母は時政の娘である阿波局(「鎌倉殿の13人」では実衣)なので、もっとも影響力を行使できる立場にあったのは北条氏だ。
平賀朝雅は後鳥羽院との結びつきが深い。その縁で北条氏の権力を固めようと思ったとの説明もあるが、その14年後、実朝が鶴岡八幡宮にて殺害された際、後鳥羽院や朝廷は幕府や北条氏の統治能力を疑い、激しく非難していることを考えると、時政夫妻が在職中の将軍を殺害するという危険な賭けに出たとは、正直考え難い。政子と義時のクーデターに、時政夫妻がおとなしく従ったのも、不自然と言えば不自然だ。
もしかすると、畠山氏滅亡といういささか強引な権力闘争の始末のつけ方に対し、御家人たちからの不満や恐怖、不審が高まり、北条氏の専横を憎む動きが生まれたのかもしれない。そして、それを収めるための「落とし前」として、時政夫妻が隠居するという判断がなされたのかも。政子と義時のクーデターは、いわば北条氏内部での「出来レース」だった可能性もあるのではないか。
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