【鎌倉殿の13人】「あんた、やるな」と言わしめた策士「りく=牧の方」の生涯
権謀渦巻く鎌倉の武家政権を描くNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。幕府内での勢力争いはいよいよ激しさを増し、陰謀、裏切り、密告、トラップを縦横に駆使した、ドス黒い抗争劇が繰り広げられてゆくに違いない。なぜ「違いない」のかといえば、史実がそうなっているからだ。【安田清人/歴史書籍編集者】
【写真8枚】大胆なオフショルの白いワンピース、ピンクチュールのノースリーブなどをまとう「りく」を演じた宮沢りえ
「策士」としての「りく」
そんな陰惨な物語のなかで、ひときわ異彩を放っているのが、宮沢りえ演じる「りく」であろう。北条時政の後妻にして、北条氏を御家人のなかでも至高の地位につけ、一族の繁栄を勝ち取るために知恵を巡らせ、夫の時政の尻を叩き続ける、実に痛快な女性として描かれている。
北条氏にとって最大の障壁と目された梶原景時を葬るため、山本耕史演じるメフィラス……もとい三浦義村が弾劾状を作り御家人たちの署名を集める。「りく」は、夫の時政は大物だからといって、まだ誰も署名していない弾劾状の末尾に時政の名を署名させる。やがて一夜にして実に66名もの署名が集まった。景時が御家人たちに嫌われていたのは事実だろう。
そして、いざ2代目鎌倉殿(のちの2代将軍)頼家のもとに弾劾状を提出しようとすると、「りく」は突如として時政の名が書かれた弾劾状の端を刃物で切り取ってしまう。あっけにとられる周囲をよそに、「りく」は「もし何か咎めを受けるようなことがあれば、時政に累が及びますから」と言い放ち、婉然と微笑む。
梶原景時の追い落としに賛同する素振りをみせながら、頼家が梶原の肩を持ち、むしろ弾劾状に名を連ねた御家人たちを罰しようする事態を想定して、あらかじめ名前を削ってしまったわけだ。
これは景時の弾劾状に時政が署名していなかったという「史実」を使ったフィクションだが、「りく」の策士ぶりを存分に描いた場面だった。三浦義村の口をついて出た「あんた、やるな……」に共感した視聴者は少なくだろう。
時政と牧の方
この「りく」だが、史料に本名は出てこない。「牧の方」という通称で知られているため、ここから先はこのように記すこととする。
近年、京都女子大学名誉教授の野口実氏をはじめとする鎌倉時代研究者の手によって、北条時政は伊豆の小領主ではなく、朝廷から任命された在庁官人(地方役人)の出身で、公家社会や朝廷 とも深いつながりを持つ有力者であることが明らかになってきた。
そして、時政の後妻である牧の方についても、実像が明らかになりつつある。
牧の方は、駿河国(静岡県)の大岡牧を所領とする牧宗親(まき・むねちか)という武士の娘(もしくは妹)とされている。この牧宗親の姉もしくは妹にあたるのが池禅尼(いけのぜんに)。平清盛の父・忠盛の後妻で、平治の乱に敗れて捕縛された源頼朝の助命を清盛に嘆願してくれた人物だ。
こうした家に生まれた牧の方は、京都の貴族社会に強力な人脈を持っていた。
文治元(1185)年、北条時政は頼朝の代官として上洛し、入れ替わりに京を去った源義経を捜索するためと称して守護と地頭の設置を朝廷に認めさせている。これは鎌倉幕府の実質的な成立を意味するとも言われる大きな功績だ。
もともと京都の公家社会とつながりが深かった時政は、旧知の間柄である院近臣(いんのきしん=後白河院に仕える貴族)である吉田経房(よしだ・つねふさ)を頼り、その導きで、朝廷の事実上のトップである後白河院との交渉を進めたとされている。同時に、妻である牧の方の人脈も大きく寄与していたのだ。
時政の上洛の2年前、寿永2(1183)年に、平家一門の平頼盛が鎌倉に下っている。これは池禅尼と平忠盛の子で、清盛の異母弟であると同時に牧の方の従兄弟ということになる。
当時、平家の主流派はすでに都落ちして西日本に逃れていたが、反主流派の立場に置かれていた頼盛は頼朝に接近し、その政権樹立に協力していたのだ。間を取り持ったのは、親族である牧の方であり、その夫の時政だと推測されている。
[1/4ページ]