沖縄激戦地で発掘された「存在しない名字のハンコ」 ついに遺族との接触に成功

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最も重要な目的は、遺骨の返還

 これまで私たち夫婦が遺族の元へ届けた遺留品は、ハンコ以外にもさまざまなものがあった。

 軍規違反を承知で、自らの出身地や氏名を刻み込んだ、船舶工兵隊・伍長の望郷の念がこもる「認識票」。生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けずとした戦陣訓に従わず、部下の学徒兵らに「君たちは生きろ」と言い残し、爆雷を背負って敵戦車に突っ込んだ通信隊・分隊長の恩情が宿る「万年筆」……。

 遺留品の持ち主を探り当てる中で、それぞれの兵士が職務を全うしながらも、故郷の家族を想い、命を尊ぶ人々であったことを実感した。

 ただ、私たちの活動の目的は、遺留品の返還だけではない。戦没者の遺族を探す最も重要な目的、それは遺骨の返還だ。

 遺留品を届けると、多くの遺族が、「どんなふうに死んだのか。戦ったのか、飢えていたのか、病気ではなかったか。現場に遺骨はあったのか」と切実に尋ねてくる。日米合わせて20万人以上が戦没したとされる沖縄戦。国などの概算では、2021年の時点で未収容の遺骨が約650柱とされている。だが、収容された遺骨も、ほとんどが遺族の元へは戻っていないという。

 これまで戦没者の身元は、本人の氏名がわかる遺留品が出てこない限り、特定が難しかった。でも最近は、遺骨と血縁の近い遺族のDNAを照合することが可能になった。19年に糸満市で私たちが発掘した遺骨が、国によるDNA鑑定の結果、北海道出身の戦没者・金岩外吉さん(享年21)であると確定。昨年4月、七十数年ぶりに家族の元へ帰還した。その伝達式に立ち会い、半世紀以上も待っていた遺族の想いに胸を打たれた。

遺骨のDNA鑑定を打診

 佐藤岩雄さんと同じ第3中隊に所属していた金岩さんの遺骨は、「佐岩」のハンコを見つけた場所から100メートルと離れていない陣地壕に埋もれていた。遺骨と遺族のDNAが一致して、故郷へ帰還できた例は、沖縄戦では金岩さんを含めてわずか6例。うち5例は、遺骨の近くに名前の特定できる遺留品があったとされる。

 金岩さんのケースは、生き残った兵士の資料や証言を基にしたボランティアの調査で、DNA鑑定を経て身元特定に至った初めての例となった。それ以降、「父の遺骨を探してほしい」「帰って来ない兄の消息を知りたい」と訴える遺族からの連絡が、私たちの元へ多数届いている。

 昨年3月にも、「佐岩」のハンコが見つかった場所から直線距離で約200メートルの高地の壕で、戦没者とみられる8柱の遺骨を発掘し、国にDNA鑑定を依頼した。2体は子供、残り6体が成人の遺骨で、埋もれていた状況などから、亡くなった後に誰かが仮埋葬したように思われる。

 沖縄で日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日以降も戦い続けた岩雄さんらの部隊。その最中に負傷したり衰弱したりして亡くなった戦友の亡きがらを、あちこちの壕に仮埋葬したとの証言が残っている。

 それらを勘案すると、6体のうち1体が岩雄さんの遺骨である可能性は十分ある。ゆえに今回、岩雄さんの遺族に、DNA鑑定を申し出るように働きかけたのだ。秀人さんは、「父も伯父の帰りを待ち望んでいました。ハンコだけでなく、遺骨も還って来てほしい。そして、父と同じ墓に入れたい」と言って、記入した鑑定申請書を私たちに託した。

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