沖縄激戦地で発掘された「存在しない名字のハンコ」 ついに遺族との接触に成功

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「岩雄がもっていたハンコだと思います」

 ここで、ハンコを見せた。岩雄さんが戦没されたと記録にある場所から発掘したこと、「佐岩」とは姓と名から1文字ずつ取った可能性があること、同じ大隊に13名の佐藤姓の将兵がいたこと、などを説明する。岩雄さんのものであるかは確定していない、と伝えながら手渡し、受け取るか否かの判断を仰いだ。

 しばし印面を凝視した秀人さんが、口を開く。

「佐藤姓って、ただでさえ多いですよね。私の小学校のクラスメートに4人いたことも。区別が難しいから、同級生だけでなく先生までがあだ名や下の名前で呼んでいました。軍隊だったら、さぞ大変だったでしょう。もし、出征前に作ったとしたら、田畑さんのお父さんに彫ってもらったのかな。佐藤家のハンコは、父も祖母もこの店で作りましたから」

 そして、慈しむように撫でながら、「岩雄が持っていたハンコだと思います。こんな小さなものでも伯父の生きた証。頂けますか。仏壇に供えて供養したい」と決意を込めるように語った。

 傍らに座っていた田畑さんは、「使い込まれて、印面がすり減っていますね。素材はオランダ水牛かな。作った人の思いがこもった良いハンコです。残念ながら、父が彫ったものかどうかは判りませんが、家族の元へ還すお手伝いができたことで、私も責務の一端を果たせたと思います」と目を細めた。

ハンコは持ち主を特定しやすい遺物

 これまで、戦没者の遺留品を数多く遺族へ届けてきた。その都度、故人や家族の紡ぐ物語に胸打たれる。今はめったに人が寄りつかない沖縄の戦地。そこに埋もれた遺物が、家族にとっては大切な形見であり、戦没者の生きた証となる。なかでもハンコは、持ち主を特定しやすい貴重な存在だ。

 今から9年前、同じ糸満市の真栄里(まえざと)で発見した「濱岡」と刻まれた水牛製のハンコ。千発以上の銃弾や砲弾、急造爆雷などと共に出土した。戦没者データベースなどから、北海道函館市出身の濱岡敏雄さんの遺留品と特定し、札幌市内に住む弟の妻へ返還した。敏雄さんは、戦地で稼いだ給料のほとんどを故郷の母へ仕送りし続けた孝行息子。ハンコは母が眠る納骨堂へ納められた。

 6年前には、糸満市国吉にあった歩兵第32連隊第1大隊の本部壕入り口で、焼かれて変形した「林」姓のハンコを見つけた。その持ち主を約4年間探し続け、北海道恵庭市出身の林秋良さんのものと断定。同市内の甥へ届けることができた。沖縄で戦死した林さんは複数名いたが、甥の父親(秋良さんの兄)が使っていたハンコと瓜二つの篆書体(てんしょたい)の印影が決定的な証拠となった。そのハンコは、林兄弟の父が息子たちへ1本ずつ贈った大切な記念品だったという。

「鳥肌が立つほど感動しました」

 今回、謎のハンコの持ち主を探り当て、返還に至るまで、全国に展開する全日本印章業協会の人脈に助けられた。福島恵一会長に奇跡の顛末を伝えると、「脱ハンコの気運が高まる中、業界の職人たちへの嬉しいニュースになりそうです。ハンコ本来の役割は印影を残すこと、と捉えていましたが、戦場で見つかる戦没者の形見として、遺族へ届けられていたとは……。鳥肌が立つほど感動しました。父祖から引き継いだ仕事の誇りをより強く実感できます」と喜びを共有して下さった。

 沖縄の土に77年近くも埋もれていたハンコ。謎が解け、家族を愛した佐藤岩雄さんの遺品として、故郷の甥の元へ還った時、今回の長い旅はひとまず終わった。それでも、「まだ伝えたい大事なことがある」という夫・哲二に、ここで書き手を交代します。

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