【鎌倉殿の13人】頼朝の死後、北条時政の権力欲が露わに……なぜ我が世の春は長続きしなかったか
牧氏事件とは
時政と牧の方は起死回生の一手を思いつく。これが後に「牧氏事件」と呼ばれるものだ。実朝を殺し、平賀朝雅を将軍にしようと牧の方は計画した。重忠謀殺から2カ月後の同年9月だった。
「牧の方が奸謀(悪だくみ)をめぐらし――」(『吾妻鏡』)
朝雅こそ自分たちの意のままに動く将軍になると時政と牧の方は考えた。実朝も時政が将軍にしたものの、政子と義時側の人間になっていた。
時政らは怪しげな人物を将軍にしようとしたわけではない。朝雅は清和源氏の流れを汲み、頼朝の猶子(親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度)だった。また、後鳥羽上皇(尾上松也)に気に入られ、関係が深かった。
だが、実行に移す前にバレてしまった。朝雅擁立計画を知った政子は北条邸にいた実朝を救い出す。救出の実行に当たったのは義村や結城朝光(高橋侃)たち。朝光は「鎌倉殿――」第28話で梶原景時(中村獅童)追放のきっかけをつくった御家人である。政子の信頼が厚かった。
一方、時政と牧の方の計画に同調した者は少数。勝負あった。時政はすぐさま出家させられ、牧の方と一緒に地元の伊豆国北条(静岡県伊豆の国市守山地区)に帰された。追放だ。京都守護職(治安維持や朝廷と幕府の連絡などを担当)だった朝雅は京で殺害された。時政の計画に同調した者も出家させられた。
この事件の首謀者は牧の方だと『吾妻鏡』には書いてある。だから牧氏事件と呼ばれる。だが、『愚管抄』などには時政との共謀があったと記されている。北条家寄りに書かれている『吾妻鏡』は政子と義時の名誉を守るため、牧の方を悪玉にしたと考えられる。
時政が1215年に他界すると、牧の方は朝雅と死別した娘のいる京へ移った。娘は公家の藤原国通と再婚していた。牧の方は公家の姑になったので、優雅に暮らしたとの説もあるが、真偽は不明。
1227年、牧の方は国通邸で時政の13回法要を盛大に行っている。ひとまず時政を忘れてはいなかった。
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