【鎌倉殿の13人】ヤクザの手口で愛妾を強奪、母親からも酷評… 史書でみる「源頼家」の実像とは
頼家の悲劇の理由、時政の計算
行政官として力不足だったら、それは周囲がカバーすればいい。頼家の致命傷になったのは北条家との対立にほかならない。
頼家は1203年5月、北条家の切り札である実朝の乳母夫・阿野全成(新納慎也)に謀反の疑いをかけ、討った。実朝の存在が脅威だったのだろう。これで北条家との反目は決定的となった。
その3カ月後の同8月、頼家は病に罹る。『吾妻鏡』などの史料にはなぜか病名や病状がないものの、同月下旬には危篤に陥ってしまう。全成が討たれた直後なので「病ではなく、北条家から毒を盛られた」「すべては時政の策略」といった説が消えない。
8月27日、頼家の死去を想定し、時政が主導して家督相続について話し合われることになった。能員は一幡が家督を全て継ぐと信じて疑わなかったが、実際には違った。関東28カ国の地頭を一幡が継ぎ、関西38カ国の地頭は実朝に譲られることになった。分割相続だ。幕府もこれを了承した。頼家が危篤に陥らないと、相続の話し合いなんて出来ない。ますます時政が疑わしく思える。
この決定に能員は憤り、時政と実朝を討とうとする。「比企の乱」である。ところが時政のほうが一枚上手だった。同9月2日、能員による自分の討伐を頼家が承諾したと政子から知らされると、その日のうちに「仏事がある」と、能員を自邸に呼び出し、殺す。直後には義時らが比企邸を襲撃する。やたらと行動が早かった。
『愚管抄』によると、この日の頼家は大江広元(栗原英雄)邸で静養していた。無論、これも時政の策略。余計な動きをさせないためだ。
頼家は同8月末に死を覚悟して出家。自分がいなくなっても皆が一幡を支えてくれると信じていた。だが、実際には自分が寝ている間に比企一族は滅ぼされていた。
それを聞いた頼家は激怒。太刀を持って立ち上がろうとした。だが、まだ体が本調子ではなかった。なにより、政子から体を抑えつけられてしまった。
同9月7日には実朝が朝廷から征夷大将軍に任じられた。スピーディーだった。時政が「頼家は死んだ」と大ウソを吐いたせいでもある。相続の話し合い、能員殺害も含め、すべて計算ずくだろう。
一方、頼家は9月29日に鎌倉を離れ、伊豆国修善寺(現・静岡県伊豆市修善寺地区)に幽閉される。不思議と病はすっかり良くなっていた。危篤にまで陥りながら、後遺症もなかった。やはり病というのは疑わしい。
同11月、頼家は政子に願い事を書いた書状を送る。側近たちが修善寺に来ることを認め、安達景盛を罰するよう求めた。景盛をずっと恨んでいたのである。しつこい……。
政子は返事を書き、三浦義村(山本耕史)を使者として頼家に届けさせた。その内容は願いを2つとも却下。そのうえ2度と書状を寄越さないよう書いてあった。ゼロ回答どころかマイナス回答だった。
『愚管抄』によると、頼家は翌1204年8月に北条家の送り込んだ刺客に暗殺される。「鎌倉殿――」では善児(梶原善)がその役目を担うのか。頼家はまだ23歳だった。
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