【鎌倉殿の13人】ヤクザの手口で愛妾を強奪、母親からも酷評… 史書でみる「源頼家」の実像とは
大泉洋(49)が演じた源頼朝はクセの強い人物だったが、跡を継いだ金子大地(25)扮する源頼家も問題人物だ。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の話である。第28話までが終了した。実際の頼家はどんな人物だったのか? 本人と周囲の人々の姿を史書から浮き彫りにする。
政子の頼家評は最悪
「鎌倉殿――」の第28話で頼家は御家人・安達景盛(新名基浩)からゆう(大部恵理子)を奪ってしまう。景盛は頼朝の側近中の側近だった安達盛長(野添義弘)の長男。頼家が鎌倉殿になってから約半年後の1199年7月のことだった。
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によると、頼家はまず景盛を三河国(現・愛知県東部)へ出張に行かせた。その間に景盛の愛妾を自分のところへ連れて来させた。美しいと評判の女性だった。まるでヤクザ映画の悪玉親分の手口だ。
鎌倉に戻ってきた景盛は「愛妾を奪われた」と幕府に訴え出た。妥当である。ところが頼家はこの言動が景盛による謀反の動きだとし、討伐を命じる。ムチャにもほどがある。
事態を収拾させたのは政子(小池栄子)。景盛に「謀反の意はない」という起請文(神仏に誓う文書)を書かせることで決着させた。
政子はその起請文を頼家に渡す際、かなり厳しく叱った。『吾妻鏡』にはこのように書かれている。
「景盛を討とうとしたことは粗忽の至り。あなたは国家守護(軍事行政)を務める人物としてふさわしくありません。政治に飽きてしまい、人々の憂いを知らず、女性にうつつを抜かし、人の誹りも顧みない」(『吾妻鏡』)
ボロカスである。その後も政子による諫言は止まらなかった。小笠原長経(西村成忠)ら頼家の6人の側近たちのこともなじった。「邪佞(じゃねい)の者たち」(同『吾妻鏡』)。不正な心を持ちながら、人にへつらうという意味だ。
頼家本人もダメだし、側近たちもろくでなしだと断じられたわけである。この時、頼家18歳。政子に反発したという記録はないが、面白くなかっただろう。
比企一族にべったり
頼家が生まれたのは1182年9月。幼名は万寿。「鎌倉殿――」では乳母は比企能員(佐藤二朗)の妻・道(堀内敬子)が務めたことになっているものの、史書では能員の妻の名前が分からない。また授乳は複数の女性で行わないと間に合わないので、梶原景時(中村獅童)の妻も乳母の1人に加わった。ただし、頼家の養育全般は比企一族が行った。
1198年には能員の娘・若狭局(山谷花純)が頼家の側室となる。同じ年には2人の間に長男・一幡(白井悠人)が生まれた。頼朝の初孫である。頼家は完全に比企一族寄りになった。
頼朝が亡くなったのは翌1199年1月。直後に頼家が跡を継いだ。すんなりと決まった。北条時政(坂東彌十郎)は娘の阿波局(宮澤エマ)が乳母である頼朝の次男・千幡(後の源実朝、柿澤勇人)を鎌倉殿にしたかったが、かなわなかった。
実朝はまだ6歳。おまけに朝廷も「頼家が正統な後継者である」と頼朝の存命中から認めていた。仕方がない。ところが、時政らは本気で実朝を鎌倉殿に据えようと画策していた。一時は頼朝の盟友だった九条兼実(田中直樹)の日記『玉葉』にはそう書かれている。
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