ウィンブルドン5連覇「ビヨン・ボルグ」 “悪童”との“伝説の一戦”秘話(小林信也)
ビヨン・ボルグは日本がテニスブームで盛り上がっていた1970年代から80年代にかけて、王座に君臨したレジェンドだ。
74年の全仏オープンで初めて四大大会を制し、75年も連覇。76年にはウィンブルドンを初制覇、それから無敵の5連覇を飾る。1880年代に6連覇の記録はあるが、現在のトーナメント方式になってからはボルグの5連覇がいまも最長記録だ(2007年にフェデラーが肩を並べた)。
ボルグは「トップ・スピン」の代名詞で知られる。ボールをフラットに打ち返すのでなく、ラケットを下から上に撥ね上げるように使い、強烈なトップ・スピンをかける。相手コートでバウンドした後、ボールはラケットを弾き飛ばす勢いで襲いかかる。伸びのある重い球質。一見、何の変哲もないグランド・ストロークの打ち合いだが、ボルグと戦う選手は一打ごとにダメージを受け、体力と集中力を奪われていく。
テニスラケットがまだ木製だった時代、ボルグは木のフレームが耐えられる限界ともいわれた80ポンドを超える強度でストリングを張っていた。
ウィンブルドンで決勝を戦った相手は、76年がイリ・ナスターゼ(ルーマニア)、77、78年ジミー・コナーズ(米)、79年ロスコー・タナー(米)、80年ジョン・マッケンロー(米)。いずれも時代を代表する選手たち。彼らを返り討ちにしたボルグの強さは際立っていた。中でも、5連覇を達成した80年の決勝、対マッケンロー戦は、3時間55分におよぶ激闘となり、いまも「テニス史に残る名勝負」と呼ばれている。
ファッションでも席巻
そのころ私はテニスの取材をする機会が多かった。当時まだ大学生だったが、若者文化の発信源といわれた人気雑誌「ポパイ」の編集部でスポーツの原稿を書かせてもらっていた。少し遅れて編集部に来たのが、後に写真家として数々の話題作を発表する都築響一だった。「フリスビーの小林クン」がスポーツを担当し、「キョーイチ」は主にサブカルチャーのエースだった。
その「ポパイ」がテニス特集に続いて「テニスボーイ」という別冊を出版することになり、私はアメリカ西海岸に送られた。デスクとカメラマンとテニスショップを回り、ビバリーヒルズホテルで往年の名選手にインタビューをした。帰国後はほぼ1カ月、築地の木賃宿のような旅館で缶詰になり、夜も昼もなく原稿を書いた。別冊の半分くらいをひとりで書いた。同期が就職活動に奔走する間、私は将来も考えず、そこで過ごした。
そのころ一番人気のあったラケットは「ウィルソン」だったが、ボルグの使っているドネーも憧れの的だった。ウェアはフィラ、シューズはディアドラ。それまでのイメージを一新するテニス・ファッションが世界を席巻し始めていた。その広告塔がボルグだった。
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