プロも大注目の「4番候補」だったはずが……期待外れに終わった“超高校級スラッガー”3人
相思相愛で中日に入団
岡本和真(巨人)や村上宗隆(ヤクルト)のようにドラフト1位で入団した超高校級スラッガーが、プロでも不動の4番に成長する一方で、“将来の4番”と期待されながら、花開くことなく終わった“未完の大器”も少なくない。【久保田龍雄/ライター】
プロ1年目にそこそこ活躍したのに、2年目以降伸び悩み、通算10本塁打に終わったのが、1983年のドラフトで中日に1位指名された藤王康晴(享栄高)である。
同年のセンバツで3本塁打と大会新の11打席連続出塁を記録した左の長距離砲は、“谷沢健一の後継者”と見込まれて、地元・中日に相思相愛で入団する。
“ミスタードラゴンズ”高木守道の引退以来欠番になっていた背番号1を受け継ぐと、1軍昇格直後の84年7月14日の大洋戦で、7回に代打で登場。2ストライクと追い込まれながら、古賀正明のフォークを痛烈に一塁線に弾き返す二塁打で鮮烈なプロデビューを飾った。
7月20日のジュニアオールスターにも全ウエスタンの4番として出場し、4打数4安打を記録。同27日の巨人戦では、槙原寛己の146キロを右前安打し、「数字ほど速くはなかった」と言い放った。外角球をバットに乗せるようにして左方向に安打するセンスの良さは、「教えたってできるもんじゃない」(中日・山内一弘監督)とかつての打撃の職人をも唸らせた。
さらに、藤王は9月23日、2.5ゲーム差で追う首位・広島との直接対決で、0対1の8回に北別府学からプロ1号となる同点弾を放ち、「代打だけで使うのはもったいない」の声も出た。
スナックでの喧嘩が原因で謹慎処分
1年目は34試合に出場し、36打数13安打8打点2本塁打の打率.361。2年目はさらなる飛躍が期待された。だが、1年目のひたむきさは、次第に影を潜めて、86年にはスナックの客と喧嘩して謹慎処分を受けるなど、私生活でも問題を起こし、年々出場機会が減少。88年に背番号1を返上し、「0」から再スタートを誓ったが、結果は出なかった。
90年に日本ハムに移籍すると、心機一転、1本足打法に取り組み、キャリアハイの75試合に出場も、翌年以降は失速し、92年限りで戦力外になった。
結局、通算成績は、プロ8年間で237試合に出場し、打率.220、10本塁打、37打点だった。「10年に1人」の天才打者でも、ボタンをかけ違うと、せっかくの才能も埋もれてしまうのである。
“ハマの4番”を目標にしながら、1軍出場6試合で終わったのが、紀田彰一(横浜高)である。
94年の横浜高は、高校通算41本塁打の紀田を4番に、3番・斉藤宜之(巨人→ヤクルト)、5番・多村仁志(横浜→ソフトバンクなど)の超強力クリーンアップを誇っていた。
だが、夏の甲子園、那覇商戦では、紀田が4打席連続四球と徹底的に勝負を避けられ、2対4でまさかの初戦敗退。1度もバットを振ることなく敗れた紀田は「(明徳義塾戦で5打席連続四球の)松井(秀喜)さんの気持ちがわかりました」と悔しがったが、この“強打者の勲章”が2年前の松井同様、評価を一層高めたのも事実だった。
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