引退「吉田拓郎」と学生運動 広島大で運動家から「やめろ!」と吊るしあげられた過去

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「私たち」を歌う岡林信康と「私」を歌う拓郎

 拓郎の時代が到来したのは翌1971年8月。きっかけは屋外コンサート「第3回全日本フォークジャンボリー」(岐阜県中津川市)。フォークシンガーが30組以上集まる歌の祭典だった。

 当時、フォークの神様といえば、「私たちの望むものは」や「友よ」を歌った岡林信康(75)。このコンサートにも出演した。だが、観客の視線は拓郎に集中してゆく。

「客たちが『岡林引っ込め! 拓郎出せ!』って叫び始めた」(拓郎「文芸ポスト」2002年7月号)

 拓郎は観客の求めに応じる形で「人間なんて」を歌った。実に2時間も歌い続けた。途中でPA(音響装置)に不具合が生じ、マイクの音が出なくなったが、それでも拓郎は歌をやめなかった。

 観客は熱狂した。泣きながら体を揺らし続ける観客もいた。半裸になって踊る観客も。日本のコンサートでは前代未聞の光景だった。新しい若者のカリスマが誕生した瞬間だった。

「人間なんて ララララララララー 何かが欲しいオイラ それがなんだか分からない」(「人間なんて」)

 やはり個人の内面がテーマだった。

 このコンサートと同時期、連帯や反体制をテーマとする曲は急速に支持を失ってゆく。当時の若者たちが学生運動の敗北に打ちひしがれていた上、激化の一途を辿る内ゲバに戦慄していた影響だった。

 コンサートから1年前の1970年8月には過激派による東京教育大(現筑波大)生リンチ殺人事件が起きた。同世代の仲間を殺してしまっては「連帯」という言葉も色褪せる。

 岡林の歌のテーマには連帯が多かった。「私たちの望むものは」(1970年)ではこう歌った。

「私たちの望むものは 社会のための 私ではなく 私たちの望むものは 私たちのための 社会なのだ」

 力強い歌詞とメロディで今なお名曲の誉れ高いが、社会の空気と合わなくなってしまった。

 一方、拓郎の曲は聴く側と一定の距離があり、政治色は皆無に等しい。政治家に腹が立っても戦う気はなく、酒に向かうと歌った。「ペニーレインでバーボン」(1974年)である。

「気持ちの悪い政治家どもが 勝手なことばかり言い合って 時には無関心なこの僕でさえが 腹を立てたり怒ったり そんな時 僕はバーボンを抱いている」

 岡林に非はないものの、「私たち」ではなく『私』を歌う拓郎を時代は求めた。あのころ20歳前後だった団塊の世代にとって、拓郎は神のような存在になった。

拓郎の台頭と政治意識

 拓郎の台頭と当時の政治意識には偶然とは思えない一致がある。学生運動が華やかなりしきころで、政治色のある歌が歓迎された1960年代の日本には、無党派層が5%程度しか存在しなかった。

 ところが、学生運動に一区切りが付き、事件を次々と起こす過激派への批判が高まった1970年代になると、無党派層は約20%に激増する。政治と距離を置く人たちが一大勢力になった。同時に政治色ゼロの拓郎も支持を伸ばした。

 拓郎が若者のカリスマから全世代が知るアーティストにステップアップしたのは1972年1月。シングル「結婚しようよ」が40万枚以上売れたからだ。オリコンのチャートでは3位に。フォークがヒットチャートでベスト3に入るのは異例のことだった。

「僕の髪が肩までのびて 君と同じになったら 約束どおり 町の教会で 結婚しようよ MMMM」(「結婚しようよ」)

 作詞も作曲も拓郎。プロポーズのエピソードを詞にしたのは斬新だった。既存のプロの作詞家が思いつかないような詞。やっぱり個人に拘った。

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