【鎌倉殿の13人】史書で読み解く「源頼家の時代」 相次ぐ内輪揉めで比企の乱 北条時政に好機到来
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が17日放送の第27話から新局面に入る。大泉洋(49)が扮していた源頼朝が死去し、金子大地(25)が演じる長男・源頼家の時代になる。鎌倉はどうなるのか。史書に基づき読み解きたい。
御家人の妾に手を出した頼家
冷酷で猜疑心の強い頼朝がこの世を去った後の鎌倉には平和が訪れるのかというと、そうではないのは知られている通り。血で血を洗う内輪揉めが相次ぐ。やれやれである。
頼家が2代目の鎌倉殿になったのは頼朝死去から間もない1199年1月。まだ18歳だった。この時点では征夷大将軍ではない。朝廷から将軍に任じられたのは3年以上が過ぎた1202年7月だった。
頼家は鎌倉殿になった時点から、やる気満々だった。とはいえ、経験が乏しく、思慮も浅かったので、周囲は心配する。
このため、1199年4月に有力御家人13人による合議制を敷いた。領地問題などの訴訟を頼家へ取り次ぐのはこの13人に限定した。
大半が既に「鎌倉殿――」でおなじみの顔ぶれである。将軍家に近い武士が9人。頼家の外祖父の北条時政(坂東彌十郎)、同じく外叔父の北条義時(小栗旬)、頼家の乳母・道(堀内敬子)の夫である比企能員(佐藤二朗)、梶原景時(中村獅童)、安達盛長(野添義弘)、八田知家(市原隼人)たちだ。一方、文官は大江広元(栗原英雄)ら4人。36歳の義時を除き、武士も文官も全員が50歳以上だった。
13人はあくまで頼家のサポーター陣。ぬるい組織であり、『吾妻鏡』を見ても13人が集まったことは一度としてない。それでも頼家は自分が望んだ訳ではない仕組みが出来たので、面白くなかった。
そこで頼家は比企時員、比企宗員、小笠原長経、中野能成、細野四郎、和田朝盛を近習(側近)とし、この面々しか自分と許可なく会えないと定めた。乱暴な話である。
時員と宗員は比企能員の子。朝盛は和田義盛(横田栄司)の子だった。みんな頼家と年齢の近い遊び仲間である。
危なっかしい頼家を周囲は不安視した。そんな悪い予感は的中してしまう。頼朝の死から僅か7カ月後の1199年8月、安達盛長の長男・景盛の妾が美しいと知り、無理矢理に自分の妾にした。さらに景盛がこれを恨んでいると決め付け、近習の長経に討伐を命じた。メチャクチャだ。
鎌倉は大騒ぎに。合戦前夜のようなムードになったが、景盛討伐は頼家の母・政子(小池栄子)が許さなかった。体を張って阻止した。景盛の父・安達盛長は頼朝の最側近だったのだから。景盛を討つなら、その矢は自分が防ぐと政子は頼家に伝えた。
「我まずその箭に中る」(『吾妻鏡』)
景時の追放
さすがに頼家も折れたものの、事件は続く。2カ月後の1199年10月、御家人たちが梶原景時を糾弾し、鎌倉から追い出す。
景時は頼朝に源義経(菅田将暉)の行状について告げ口し、兄弟が対立する理由の1つをつくり、御家人たちの不評を買った。また似たようなことをやらかしたのだ。
『玉葉』によると、頼朝の側近だった結城朝光(高橋侃)が、頼朝を思うあまり、「忠臣は二君に仕えず」と口にしたところ、景時がこれを頼家に告げ口。「朝光に謀反の意思あり」と付け加えた。言い掛かりだった。
だが、今度は御家人たちが黙ってなかった。朝光からこの件の相談を受けた三浦義村(山本耕史)が、朝光支援の声を上げると、同調者が相次いだ。その数、計66人。もう景時の居場所は鎌倉にはなかった。
景時はもとからの領地である相模国一宮(神奈川県寒河町)に追いやられた。鎌倉の景時邸は御家人たちによってブッ壊されたというから、よほど嫌われていたのだろう。
それでも景時は活路を求めて京を目指す。しかし、駿河国(静岡県中部)に差し掛かったところで地元武士に襲われ、殺される。この謀殺は時政と大江広元らが話し合い、決まったと『吾妻鏡』には書かれている。
景時は姑息な男であったものの、頼朝と頼家を支えようとしていたのは確か。『愚管抄』は後に頼家が滅んだのは景時を失ったからだと記している。『保暦間記』には、頼朝は景時からの情報を精査したが、頼家は鵜呑みにしたと書かれている。
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