黒人差別、ナチスと闘ったスプリンター 伝説となったライバルとの五輪決勝(小林信也)
ジェシー・オーエンスは1936年ベルリン五輪の陸上で4冠に輝いた英雄。だが、「黒人スプリンターの生涯は不遇で、馬と競走させられたこともあった」と、子どもの頃に聞かされた。
ジェシーは本名ではない。小学校の先生が通称のJCを聞き間違えて呼んだのが定着したという。名前を間違われるのは愉快じゃない。私はしばしば信也を「しんや」と読まれる。そのたび、少し傷つく。しかしジェシーには相手の誤りを正す人権意識すら持たされていなかった。呼ばれるまま受け入れることが、当時の黒人少年の置かれた現実だったのだろう。
そんなジェシーの希望の拠り所は陸上競技だった。高校時代に実力を認められ、オハイオ州立大学に進学。かつて名選手だったラリー・スナイダーコーチとの出会いが才能を開花させた。100メートル、走り幅跳びで全米王者となり、ベルリン五輪での活躍を期待された。
だが、ベルリン五輪はヒトラーがナチスの喧伝をもくろむ大会。アメリカ国内でボイコットの気運が高まっていた。参加すれば、ナチスのユダヤ人迫害を認めることになる。ジェシーは、黒人の人権団体からも不参加を強く求められた。大会直前までジェシーは激しく葛藤した。もちろん出たいが、黒人として差別を容認するわけにいかない、一度は不参加を決意する。しかし、信頼するコーチの説得、妻や父母の理解もあって翻意し欧州行きの船に乗る。
(出場するからには、絶対に負けるわけにいかない)
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