巖さんはなぜ「裏木戸の下部を3回通り抜けた」ことになったのか【袴田事件と世界一の姉】
帰宅した長女の証言
まず、侵入口についてみてみよう。
橋本邸は国鉄(現JR)東海道線の踏切から続く道路に面しており、表門には珍しくシャッターも設置されているため、就寝時にはおろして施錠する。
事件前夜の1966年6月29日午後10時10分ごろに旅行から戻った長女の昌子さん(当時19歳)は、「(表のシャッターが)まだ開けてあるとばかり思い、開けようとしたのですが開きませんので、もう、閉めてしまったのかと思いシャッターを3、4回位叩いたのです」と証言。この時、「わかった」という父・藤雄さんの返事を聞いたとしている。父母の部屋の電気がついて草履の音がしたが、シャッターは開けてくれなかった。お土産の入ったスーツケースを持った昌子さんは、「なんだ、寝ちゃったのか」と諦めて祖母(祖父・藤作さんは入院中)と住む離れに帰った。
暑い時期に早くから自宅のシャッターを閉めているのも不自然だが、既に誰かが上がり込んでいて、藤雄さんの声色を使った可能性も消えていない。
しかし、事件で火災となり近隣住民が消火に来た30日午前1時50分頃にはシャッターは開いていた。橋本家の人が中から開けたのではなく(4人とも殺されていたのだから解錠は不可能)、消火に来た人たちが開けたのだ。その時、施錠はされていなかった。
どうして犯人は表のシャッターから出入りしなかったことになったのか。
捜査本部は早くから「内部犯行説」、つまり従業員による犯行とみて、最終的に容疑者を巖さんに絞った。従業員寮からは、東海道線を跨いで、奥の裏木戸から出入りするのが近い。裏木戸は橋本家のひとか従業員位しか使わない。表のシャッターからの出入りより目立たない。
事件発生後、静岡新聞は1966年7月29日の朝刊で「表口のシャッターは火災当時、中から鍵がかかっていたといわれ、捜査本部も一応このシャッターは開かなかったものとの見解をとっている」とする。毎日新聞は「閉まっていた鉄よろい戸」としている。鉄よろい戸とは古めかしい表現だがシャッターのことだ。読売新聞だけは「(筆者注:七月)一日の現場検証で橋本さんの表のシャッターの鍵の焼け具合から、カギがかかっていなかったと推定される」としている。
「出入り」ついて、静岡県警の捜査報告書では巖さんの供述がこう書かれる。
《「裏口に至った後、隣家の庭木を利用して、被害者勝手場の屋根に上り、(著者註:この後、一家四人を殺害したくだりは省略)ちゑ子が投げてよこした金袋三個を手にして、裏木戸をこじ開け、工場に逃げ帰ったが、その途中金袋三個のうち二個を紛失させてしまい手元には一個しか残っていなかった」工場に逃げ帰ったものの四人を殺傷した罪の恐ろしさから、一時は思案に暮れていたが、このようになった以上は四人の死体を家もろともに焼いてしまう以外、手段はないと考え、工場内にあった釣り船用の混合油を味噌樽(ポリエチレン製)に入れ(六立)、再び逃げ帰る時にこじ開けた裏木戸から被害者宅に侵入し、それぞれの死体に混合油をふりかけ、表口の方から順次、マッチで点火し、火の燃えあがるのを見とどけながら再度裏木戸から工場へ逃げ帰った。》
巖さんは最初、ちゑ子さん(橋本専務の妻)が裏木戸を開けてくれていたとしていた。巖さんは9月6日付けの供述調書では「わたしとちゑこさんは肉体関係が前々からありました。ちゑ子さんが家を新築したいので強盗が入ったように見せかけて家を焼いてくれと頼まれました」としていた。このため警察は巖さんがふしだらだったようなことを盛んにマスコミに書かせたが、すぐ破綻する。巖さんが「ちえ子さんと男女関係だった」などと言う人はいなかったのだ。寮生活の上、橋本邸宅がすぐ近くならあっという間に噂になっただろう。それで、最初の侵入は報告書のような「猿のような侵入方法」に変わった。
[3/4ページ]