巖さんはなぜ「裏木戸の下部を3回通り抜けた」ことになったのか【袴田事件と世界一の姉】
猿のような侵入方法
さて、袴田事件が強盗殺人である限り、どこから橋本邸に侵入して一家を殺害し、どこから逃げたのかという「出入り」が重要になる。ここに大きな疑問がある。
一審の静岡地裁判決(1968年)から確定判決(1980年)に至るまで、巖さんの橋本邸への「出入り」については、「隣家の杉山方と被害者宅の裏口の間にある木を伝って被害者宅の屋根に上り、被害者宅の中庭に降り立った。殺害後、裏木戸から脱出した」と認定されてしまっている。裏木戸は二枚の杉戸による内向きの「観音開き」だ。
一審判決は以下の通り。
《侵入した場所に関する供述について》
《被告人は、藤雄方に侵入した場所について、裏口の右手の方に屋根に接して木が立っていたので、鉄道の防護柵を乗り越えて隣家の庭に降りその木に登って藤雄方の屋根に移って、中庭に面した土蔵の屋根に移り、そこから土蔵の屋根のひさしのところの水道の鉄管を伝って中庭に降り、中庭に面した勉強部屋の右端の五寸位開いていたガラス戸を開けて勉強部屋に入った、と供述している。(中略)捜査官が、右被告人の供述のとおりの方法で侵入の可否を実験してみたところ、侵入が可能であった(中略)ことが認められる。しかも、右被告人供述が、なされたのは九月九日であるのに、実況見分がなされたのが、九月一二日であることに照らすと、右被告人の供述はかなり信用性が高いものといわねばならない。》
《脱出した場所に関する供述について》
《被告人は、藤雄らを刺したのち、裏口に至り、裏口の戸の下の方についていた、がちゃんと引っかけるようになっている鍵を開けて戸を引張ったところ、上の方は開かなかったが、下の方が体が出入できる位開いたので、そこから外へ出て、その後石油缶の混合液をもって再び、そこから侵入し、放火ののち、同所から脱出した旨供述している。(中略)裏口の扉は、上のかけがねは、いわゆるかけたままの状態で、内側の通路に、扉から二メートル位のところに落ちて居り、下のかけがねは、いわゆるオスの部分だけが扉についていたこと等が認められるが、これは下のかけがねだけはずし、上のかけがねははずさなかったという供述と合致する。(中略)右扉は普段は、藤雄の妻ちえ子が閉めて居りかんぬきをかけ、合わせ目の上下のかけかねをかけ、さらに、合わせ目の下に漬物石位の大きさの石を一個置くのが常であったことが認められる。(中略)
井上利喜雄および滝俊一は扉が閉まっていたので、右扉を蹴って開けたことが認められるが、(中略)滝俊一が中に入っていた時には、扉の内側には屋根等から落ちた瓦や壁土などが、三〇センチメートル位の高さになっていたことが認められる。そうだとすると、火災発生当時は少しは開いていたが、火災によって、屋根から瓦、壁土などが落下して扉の内側に堆積したため閉まったようになったものと認められる。従って、右によると扉の下の方だけに隙間ができて、そこから脱出したという供述とも合致する。
さらに、(中略)捜査官が、前記扉とほぼ同様のものを作って、被告人の供述どおりの方法で、脱出の可否を、実験したところ、脱出が可能であったことが認められる。(中略)扉の状況の見分がなされたのが、九月一六日であり、脱出可否についての実験がなされたのが九月一五日であるのに対して被告人の供述がなされたのは九月九日であるので、この点に関する供述はかなり信用性が高いものということができる。》
井上さんと滝さんは消火に来た近隣住民だ。
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