日本の経済はなぜ「40年間一人負け」なのか 平均年収は韓国以下に
見習うべき二人の先輩
一方、「所得倍増計画」を打ち出した池田勇人政権では、こうした連関が働いていました。
池田元総理が創設した宏池会で政治家としてのキャリアを積んだ岸田総理。どん底に転落しつつある日本の救世主になることが求められているのに、どうして宏池会の大先輩、池田氏や大平正芳元総理に学ばないのでしょうか。
二人の元総理に共通していたのは、その時代の最大の課題に真正面から挑んだことです。池田氏は、戦後の焦土と激しい貧困から日本を復興させようとし、大平氏は、大幅な輸出黒字に対するアメリカからの非難、つまり貿易摩擦を受け、そのなかでバランスのとれた経済成長を達成させようとしました。
池田氏が掲げた「所得倍増計画」は、理論に裏打ちされた綿密なロードマップがあって、初めて成り立ちました。輸出立国をめざして産業の高度化を標榜しましたが、そこに至るまでの戦略が鮮やかでした。
石炭→鉄鋼→造船→機械へという産業の高度化が企図されましたが、たとえば石炭から鉄鋼へ移行する過程では、鉄鉱石が必要です。ところが日本は鉄鉱石の産出量が少なく、オーストラリアなどからの輸入に頼るほかありませんでした。そこで池田氏は、港に鉄鋼工場を建設する戦略をとりました。戦争で焦土と化した日本は、広い土地だけは確保しやすかった。それを逆手にとり、港に工場を設けることで鉄鉱石の輸送コストを削減し、効率的な鉄鋼生産を進めることに成功したのです。
理論に裏打ちされた解決戦略
このような開発の元手となる資金の集め方も見事でした。当時は日本の人口の6割が農業に従事し、多くの人が農協にお金を預けていました。そこで池田氏は、農協→協同組合→信用金庫→地方銀行→都市銀行→政策銀行というルートで国民の資金を吸い上げ、輸出産業の成長を画して、そこに集中させました。
また、敗戦の廃墟から立ち上がった松下電器やトヨタ自動車、ホンダ、ソニーといった当時の「ベンチャー企業」を、強力な産業及び金融政策で支援し、高度経済成長を実現させたのも、池田政権の指導力があってのことでした。
片や、大平氏の「田園都市構想」の背景には、「どしゃ降り輸出」と揶揄された日本の輸出偏重に対する国際的な非難や、東京一極集中に伴う産業や生活のひずみがありました。そこで大平氏は、地方と都市の融和や共存をめざしたのです。
日本が直面する最大の問題から、目をそらさなかった二人の総理。その解決戦略はともに理論に裏打ちされ、資源を適切に配分することで実現されました。
岸田総理も、これら宏池会の偉大な先輩たちを意識しているに違いなく、その証拠に「令和版所得倍増計画」や「デジタル田園都市国家構想」などと標榜しています。ところがその政策には基本戦略が見えず、資源の選択と集中という点でも極めてあいまいです。
戦後の焦土さながらのどん底状況で政権を手にした岸田総理は、いまの衰退傾向と正面から向き合い、逆転させ、新たな力強い発展の方向性を国民に示すという、歴史的な使命を負っているはずです。
官が中心となって民の力を結集し、国家戦略として逆転と成長を実現させた先輩にあって、自分にはないものを、臆さずに見据えるところから始めてほしいと思います。
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