伝送路が変わってもラジオの文化を発信し続ける――檜原麻希(ニッポン放送代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】
初の女性社長となって
佐藤 檜原さんは、社長に就任された時、キー局のラジオ・テレビで初の女性社長と話題になりました。社長になることをどのくらい前から意識されていましたか。
檜原 いえ、まったく思ってもみませんでした。
佐藤 ちょうど入社された1985年は男女雇用機会均等法の制定年で、翌年から施行されました。
檜原 だから私の場合、あまり男女の差を意識したことはなかったんですよ。男性と同じように中継ディレクターやアシスタントディレクターをやってきましたし。ただ男女ということで言えば、女性がもっと活躍できると思うし、そのためにはもう少し社会の環境を整えないといけないとは思いますね。
佐藤 そもそもどうしてニッポン放送を選ばれたのですか。
檜原 父が銀行に勤めていた関係で、私は5歳から小学5年までイギリスで過ごし、中学3年から高校卒業まではフランスで暮らしました。語学ができたので、それを活用した方がいいかな、と思ったんです。そんな時に友達が「マスコミに入ると、海外にロケとか取材で行けるんじゃないの」と言うので、マスコミセミナーに行ってみたんですよ。それを開催していたのがフジサンケイグループで、ニッポン放送から声がかかった。だからかなり安直ですね。
佐藤 フランスの高校では、いまのアメリカの国務長官アントニー・ブリンケン氏と同級生だったと聞きました。
檜原 そうです。エコール・ジャニーヌ・マヌエルという学校ですが、フランスの教育に則ったバイリンガルスクールなんですね。英語でも授業が取れるようになっていて、先進的でリベラルな素晴らしい学校でした。
佐藤 ブリンケンさんはどんな人でしたか。
檜原 バンドをやっていて、典型的なアメリカンボーイでしたね。懐かしい。同級生には、バイデン政権でイラン担当特使に任命されたロバート・マレー氏もいました。
佐藤 大学は日本ですね。
檜原 家族やまわりの勧めもあって慶應義塾大学に入りました。文学部哲学科の美学美術史専攻で西洋美術史をやりました。長らく海外にいましたから、当時は日本語が不自由でしたね。
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