ドラ1・吉野創士を育てた昌平高・黒坂監督、指導の原点はノムさんだった 厳しい練習で部員から胸ぐらを掴まれたことも

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「胸ぐらをつかんできた生徒もいましたね」

 当時の東和大昌平野球部は部員が1学年40人近く。約120人の大所帯だった。生活態度や、野球へ取り組む姿勢の改善を求め、実技では走塁やバントなどの基礎練習を徹底。自ずと練習時間も長くなった。

「ミーティングで新たな練習方針を打ち出したら、まず30人が辞めて90人になって。練習時間が長いとか不平不満が出て、夏の大会前にはボイコットが起きて、みんな辞めて12人ぐらいになっちゃったんですよ。『それでもいいから気持ちのある生徒だけでやろうぜ』と。1週間経ったら、『すいませんでした』と戻ってきて、結局80人ぐらいになったんですが、中には僕の胸ぐらをつかんできた生徒もいましたね。」

 その夏、いきなり埼玉8強。しかし2007年から学校の運営母体が変更となった影響で、08年に監督を辞任。不動産管理の仕事などに従事しながら、長男の所属する軟式少年野球チームでコーチを務めた。

「『ちょっと手伝って下さい』『いいですよ』なんて始めたら、どっぷり浸かってしまって。野球を好きになってもらいたいという気持ちでやり始めたら、めちゃくちゃ楽しかったんですよ。できなかったことができるようになり、勝てなかったものが勝てるようになる楽しさ。野球界の原点に携わらせてもらえたのは、すごく大きかったんです」

ノムさんの教え「豊富な知識はピンチを救う」

 学校トップからの熱烈なアプローチを受け、17年秋に昌平監督へ復帰。甲子園出場こそまだないが、ともに甲子園優勝経験のある浦和学院と花咲徳栄が「2強」を形成する埼玉高校球界に、新風を吹かせている。

「弱者の兵法ですよ。どう立ち向かうか、野村野球の実践としては、これ以上ない環境だと思っています」

 日本中がコロナ禍に見舞われた20年夏。メットライフドームで行われた代替大会の埼玉準決勝では、自身の夏を終わらせた浦和学院を9回タイブレーク、5-3で撃破。試合前にはこう呼びかけ、ナインを一つにした。

「お前たちが歴史を変えてくれ。俺の借りを返してくれ」

 言葉で選手たちを束ね、発奮させる手法は野村門下生の本領発揮だった。

「吉野に限らずですけど、『気持ちに頼るな』って言っているんですよ。知識や技術で勝とうと。『気持ちで負けるな』って高校球児がよく言ってるじゃないですか。それは当たり前のこと。『心技体』って言いますけど、僕は『心技体知』という言葉を使っています。逼迫した場面こそ、相手のバッテリー心理はどうだろうとか、冷静に考えていこうって。野村さんも『豊富な知識はピンチを救う』とおっしゃっていましたからね」

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