【鎌倉殿の13人】頼朝死す その後、何が起きたのか
乳母の存在とは?
13人の中で頼家のトップ就任に小躍りしたのは比企能員。妻の道(堀内敬子)が頼家の乳母だったからだ。
ここで引っ掛かるのは乳母というものの存在である。これから起こる能員と時政の抗争の背後にも乳母制度がある。乳母制度とは何だったのか?
当時、高貴な家では母親のほかに授乳と養育をする女性を置くのが常識だった。乳母と育てられた側の関係は緊密。当時は「乳母の容貌や性質は子供に移る」と信じられていたせいでもある。
乳母は親類同然の扱いを受けた。「鎌倉殿――」の第24話で頼朝は乳母・比企尼(草笛光子)からビンタを食らいながら黙っていたが、それも乳母なら奇異なことではなかった。
また、第12話で頼朝から万寿(のちの頼家)の乳母夫(乳母の夫)に指名された能員が得意顔になったが、これも不思議ではない。権力者と親戚のような付き合いが出来ることが確約されたのだから。
一方、乳母の愛情も半端じゃなかった。比企尼の場合、1160年に頼朝が伊豆国(現・静岡県伊豆半島と東京都伊豆諸島)に流罪になると、それから約20年も頼朝にコメを送り続けるなど経済面をしっかり支えた。
それだけではない。女婿の安達盛長らに頼朝の支援を命令した。落馬の際も頼朝と一緒にいたチョビひげオヤジである。盛長が早い時期から頼朝に仕えたのは比企尼が命じたからだ。
「鎌倉殿――」では描かれなかったものの、頼朝に謀反の疑いをかけられ、やがて謀殺された源範頼(迫田孝也)の正室・亀御前は盛長の娘。比企尼にとっては孫娘だ。
第24話で盛長が範頼への重い処分を心配し、比企尼に頼朝への取りなしを頼んだ。それを受けて頼朝と会った比企尼は「立場は人を変えますね」と淋しそうに言った。頼朝にビンタをした場面である。範頼は比企尼と盛長にとって大切な家族なのだから、心配は当然のことだった。
能員と時政の抗争
能員が頼家将軍を歓迎した理由はほかにもある。第25話でも触れられた通り、娘・せつ(若狭の局、山谷花純)が頼家の側室だったから。1198年には一幡という男の子が生まれていた。
頼家は頼朝の叔父である源為朝の孫娘・辻殿を正室に迎えたものの、頼朝の死後は関係が徐々に悪くなる。能員としては願ったりかなったりだった。頼家が真っ先に頼るのは自分である。
面白くなかったのは時政だ。頼家は血縁のある孫だが、自分より能員と近い。このままでは北条家の力に陰りが差す。
頼家には10歳年下の弟・千幡(のちの源実朝)がいた。こちらの乳母は時政の娘・実衣(宮澤エマ)で、乳母夫は頼朝の弟・阿野全成(新納慎也)だった。時政は頼家から千幡への権力委譲を目論む。2人の孫のそっちのけで、北条家と自分のことを考えた。
能員も権力を握るつもりだった。このため、比企と北条による凄惨な戦い「比企氏の乱」(1203年)が起きる。おそらく「鎌倉殿――」史上、最も醜く陰湿な争いになる。
あの時代の殺し合いは終わらない。
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