バルセロナ五輪で400mファイナリストとなった高野進 自身の「落ちこぼれ時代」を振り返る(小林信也)
チームで全国優勝を
200メートルに出る選手の枠が空いていたので、高2の春、インターハイ静岡県東部地区予選に出た。
「そしたら決勝で2位になった。ビックリした。自分にとっては一大事件です。急に視界が開けてきました」
県大会3位、東海大会6位でインターハイ出場。
「高校最後の年に向けて、400メートルもやらないかと勧められました。チームは1600メートルリレーで全国優勝を目指していた。『高野が走れればメンバーがそろう』と。ずっと見ていて、400の選手は気の毒なくらい苦しそうだった。400にチャレンジする人の気が知れないと思っていたので戸惑いました」、しかし、そこで抵抗しないのが高野だ。
「全国優勝という高い目標を持つと耐えられるんですね。仲間たちとみんなでやる、青春そのものでした」
高3の滋賀インターハイ200メートルで3位、1600メートルリレーで準優勝した。
キャスターからの手紙
東海大学に進むと着実に成長、日本代表に選ばれたが、世界の壁は高かった。
「途中で体育教師になろうと思って、文学部から体育学部に編入。運動生理学とか勉強して、『根性論でいいのか?』と、練習内容を吟味し始めました」
高野がついに自分の意志で工夫を始めた。
「こんな練習をしたいと、指導者に逆提案するようになりました。200メートル走って30秒小休止してまた200メートル走るとか。350や450を走ってみたいとか」
その努力が88年ソウル五輪で実った。9位で決勝進出は逃したが、44秒90の日本新を記録したのだ。
「45秒を切れた! 自分としてはすごいことでした」
国内の反応は鈍かったが、ひとつのテレビ番組が快挙をたたえてくれた。後日、一通の手紙が届いた。キャスターの草野仁からだった。
「400メートルの44秒台は、100メートルで10秒を切ったと同じ。だから番組に提案しました」
草野は父の反対で競技を断念した元スプリンター。
「ちゃんと見ていてくれる人がいる」、すでに27歳だったが、4年後のバルセロナを目指すと決意を固めた。
「やると決めて、まず1年間休みました。2年目もゆっくりやった。陸上を運動会のように楽しみたかったのです。28歳で100メートルを走って実業団選手権で優勝。アジア大会200メートルで日本人の優勝がないと聞いて挑戦して優勝。それが結果的に400メートルに生きました」
400メートルに復帰すると、前半200メートルのタイムが驚くほど伸びた。楽に走って前半21秒2で通過できた。
「その勢いで全日本選手権、44秒78が出せました」
31年後の今も破られていない日本記録だ。91年東京世界陸上では、30歳でついに決勝進出を果たした。
「準決勝が終わると血尿が出た。400メートルは厳しい戦い。もうふらふらでした」
バルセロナ五輪。決勝に進出するには準決勝で4位以内が必須条件だ。
「私は5番手。上位をひとり抜く必要があった。200メートル付近でイギリスの選手が止まった。彼には悪いけど幸運でした」、そして高野は、60年ぶりのファイナリストに輝いた。
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