バルセロナ五輪で400mファイナリストとなった高野進 自身の「落ちこぼれ時代」を振り返る(小林信也)
7月15日にアメリカ・オレゴンで開幕する世界陸上2022で、日本短距離陣はメダル獲得の期待を担っている。その先駆けは1992年バルセロナ五輪男子400メートルで決勝進出、「60年ぶりの快挙」と賞賛された高野進だ。高野が少年時代を振り返る。
「小学生の頃はリレーの選手でしたが、中学になるとリレーから外されて『僕のかけっこ人生はこれで終わりか』と思いました」
高野は飛び抜けて足の速い少年ではなかった。
「中学は陸上部でしたが、なじめなくてサボってばかり。一応、走り幅跳びと三段跳びをやっていました」
高校進学の時に顧問から、「続けたら伸びるかもしれないぞ」と励まされ、陸上の強い静岡・吉原商(現・富士市立高)に入った。
「レベルが高くて愕然としました。幅跳びも三段跳びも全然通用しなかった。高校に入ったら心を入れ替えてちゃんとやろうと決めていたけど、最初は居場所が見つからなかった」
そんな時、「棒高跳びをやらないか」と勧められた。
「棒高跳びは高校から始める選手ばかりだ。がんばれば、いい思い出が作れるぞ」
棒高跳び出身の梶原監督に促され、高野は拒むことなくポールを握った。
「思えば私の人生すべて受け身です。言われるままに無抵抗。流れに逆らわず、その中で工夫する……」
最初は助走してボックスにポールを突っ込む練習を繰り返した。やがて、少し体重を預けてポールを曲げる。次はそのまま向こう側に移動する。段階的に基礎練習を積み重ねたあと、ゴムを張って跳んだ。
「5、6、7月と順調に記録が伸びました。7月には3メートル80くらい跳んだ。身体が4メートル近く上がる棒高跳びは、スリルがあって面白かった。でも7月頃かな、失敗してボックスに落ちてしまった。膝がひどい折れ方をしました」
ギプスで固める生活を強いられた。冬になって、短距離班で練習に復帰した。
「スピードが遅いとポールが戻ってしまうので、あくまで棒高跳びに復帰するためのつもりでした」
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