リハビリ事業に進出した出版社の思想と実践――青山 智(三輪書店代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】
創業者、倒れる
佐藤 青山社長は、創業メンバーですか。
青山 私が入ったのは、創業の翌年です。それまでは写真製版会社に勤めていて、三輪書店の宣伝用印刷物を担当していました。その時、編集できそうな人を探しているから、入ってみないか、と誘われたんですね。
佐藤 医学に関心があったのですか。
青山 なかったですね。ただ当時は、医学書だけではなく大江健三郎さんの本も出す、ということで、それに心が動いて飛び込んだ(笑)。実際にその後、大江さんの対談本は出ています。
佐藤 入社当初はどのくらいの規模だったのですか。
青山 4畳半と6畳の二間に、社長と社員3人の会社でした。給料も安く、社会保険が完備されたのも1年くらい後でしたね。
佐藤 会社は順調に伸びていったのですか。
青山 最初は大変でしたが、いまも続く「作業療法ジャーナル」という雑誌がどんどん伸び、また学会誌の仕事が来るようになって、トントン拍子で大きくなっていきました。
佐藤 そうした専門誌の部数はどのくらい出ているものなのですか。
青山 いま「作業療法ジャーナル」が6千~7千部です。「脊椎脊髄ジャーナル」になるともっと少ない。ただ、もういまはインターネットで情報が得られますから、買うのは個人より施設や図書館ですね。
佐藤 資格試験対策の模擬試験も行われていますね。
青山 作業療法士と理学療法士の国家試験の模試をやっています。合わせて2万人前後の人が受けます。一番多い時は市場占有率が93%でした。
佐藤 専門領域があり、そこにしっかりしたマーケットもある。そうした会社でどうしてMBOをすることになったのですか。
青山 それは創業者の三輪社長が体調を崩してしまったからです。彼はカリスマで、社員はみんなその姿を見て仕事を覚えていくんですね。カリスマ性が強ければ強いほど、社員それぞれが社長に直接つながり、横の結びつきが弱くなる。だから実は会社の中がバラバラだったんです。
佐藤 分割統治みたいな感じですね。
青山 社長が元気なうちはそれでよかったのですが、体調を崩し、後継者のことを考えたり、会社を手放そうとしたりすると、社員はまとまることができない。
佐藤 編集者としての自負や力量があると、そうなりますね。
青山 最終的には医学書院時代の後輩が2年間、社長を務めました。その時に、中堅以上の人たちがどんどん辞めていきました。そこで他に候補者がいなくなって、残っていた私が社長になったんですよ。
佐藤 その時は雇われ社長ですね。
青山 はい。それで必死に会社の立て直しをしていたのですが、創業者は会社で何が起きているか知りたくて、日々報告を求めてくるんですね。でもそんなことをしている暇がない。それでお互い齟齬(そご)が生じて、関係が悪化しました。そこで私も辞めて自分の会社を設立しようと「会社をお返しします」と言ったら、「株を全部手放すから、お前が会社を買わないか」と言われたんですよ。
佐藤 ずいぶん思いきりがいい。
青山 彼は社長を辞めた後、回復して、自分でもう一つ出版社を作っていましたから。
佐藤 MBOは、創業者のアイデアなのですか。
青山 銀行の担当者です。その前に身売りの話もありましたが、成立しませんでした。それで銀行が、アメリカではやっているMBOが日本でも始まるから考えてみないかと、オーナーに提案してきた。
佐藤 創業社長にしても青山社長にしても、大きな決断だったと思います。ただ、資金が必要ですよね。
青山 当時、年商6億円の会社が2.8億円の借金をして、それを私が連帯保証しました。その上で、私自身も株を買わなければならず、個人で1億円以上の借金をしました。
佐藤 逆に言えば、青山社長に銀行の信用があったということですよ。
青山 そうでしょうか。会社の方は、5億円までの包括保証で、その額まではいちいち判子を押さなくても自動的に連帯保証になる契約でした。だから何かあった時には死んで返すしかないと、会社で1億8千万円の死亡保険に入りました。
佐藤 でもそれじゃ足りない。
青山 全然足りません(笑)。
佐藤 先般、このコーナーに東京中小企業投資育成の望月社長に出ていただいたのですが、そこから出資を受けられている。
青山 ええ、国策で作られ、経営に介入することなく長期安定株主になってくださると、銀行に紹介されました。
[2/4ページ]