〈鎌倉殿の13人〉気鬱に悩まされ、ニ十歳で病死 父・頼朝に翻弄され続けた「大姫」の実像とは
入内工作
頼朝が上洛した表向きの理由は、東大寺の大仏殿の再建に伴う落慶供養に頼朝が参列するためだったが、真の目的は18歳になっていた大姫の入内(天皇の后になる人が正式に内裏に入ること)工作。だから体の弱い大姫を無理に連れて行った訳だ。
頼朝は大姫を16歳だった後鳥羽天皇(菊井りひと 12)の后の1人にしようとした。だが、話がうまく進まない。関白・九条兼実(田中直樹 51)の娘・任子と公卿・土御門通親(関智一 49)の養女・在子が、先に后になっていたことが大きかった。
頼朝の盟友の兼実を頼ったものの、入内工作には協力してくれなかった。これで2人の関係は悪化する。2人にとって娘の入内は一大事であり、盟友との関係など二の次だった。
頼朝は1190年の上洛の際も大姫の入内工作をしていた。後白河法皇が協力を仰いだ。だが、法皇の病気と死によって頓挫した。頼朝にとって5年越しの入内工作だった。
頼朝が大姫を連れて上洛したのと同じ1195年、兼実の娘・任子は後鳥羽天皇との子を出産した。内親王(皇女)だった。皇子が生まれなかったことから、兼実の政治力は急速に低下してしまう。武家のみならず、皇族内でも男子が待望視される時代だった。
一方、兼実の政治的ライバルだった通親の娘・在子は皇子を出産した。のちの土御門天皇だ。通親は皇子の祖父となったことにより、発言力を強める。
翌1196年、兼実は失脚する。この政変を仕掛けたのは通親。盟友の頼朝は兼実を救わなかった。
理由は通親が大姫入内に協力すると約束したから。もう兼実は用済みだった。いつもながらの頼朝イズムである。
ちなみに入内工作に血道を上げたのは頼朝ばかりではない。後白河法皇の愛妾・丹後局(鈴木京香 54)も一緒。法皇との間に生まれた15歳の覲子内親王を後鳥羽天皇の后にしようとした。
だが覲子は後鳥羽天皇にとって年下の叔母。さすがにムチャだ。批判の声が高まったので、最終的には丹後局もあきらめた。
一方、大姫自身が入内を望んでいたかどうかが記された史書はない。ただし、1195年の上洛後は体調が悪化した。
『愚管抄』によると、1197年8月に大姫は病死する。まだ20歳だった。入内工作が心身の負担になったのは間違いない。
とはいえ、これで懲りるような頼朝ではなかった。今度は大姫の妹で11歳の三幡(乙姫)を後鳥羽天皇の后とするべく入内工作を開始する。やれやれ、である。
その甲斐あり、三幡は后の座を掴みかけた。入内が目前に迫っていた。しかし、その矢先の1199年1月に頼朝は逝ってしまう。
14歳になっていた三幡も5カ月半後の同6月に高熱が出て亡くなる。三幡は大姫と違い、健康だったが、熱で両目が腫れ上がってしまった。
頼朝は政治家として優れていたのは間違いないが、娘2人の父親としてはろくでなしだった。