日本人の「未熟萌え」の源流は宝塚? 恋愛禁止ルールはいかにして作られたか
「おとぎ芝居」をオペラ風に演じるという基本路線
小林は、この歌劇団が日本における本格的なオペラの一翼を担うことを目指していた。しかし、大正時代の多くの日本人にとって、オペラなどまったく縁のないもので、客足は期待できない。そこで、当時、おとぎ話を芝居に仕組んで演出した「おとぎ芝居」の創作・普及に尽力していた演劇・振り付けの指導者が宝塚に招聘(しょうへい)される。「歌劇」という未知なる西洋文化は、まずは日本人に親しみのあるおとぎ話という表現を経由して事業化されたのである。
宝塚唱歌隊は同年12月、宝塚少女歌劇養成会と改称され、その第1回記念公演が翌年4月に開かれる。このときの演目は、桃太郎を歌劇にした「ドンブラコ」など。いずれも、おとぎ話などの日本の伝統的な要素を西洋音楽の和声に調和させた、和洋折衷の歌劇を目指した演目だった。これ以降、宝塚では「おとぎ芝居」をオペラ風に演じるという基本路線が定まった。
その後も、宝塚では「舌切雀」「猿蟹合戦」「花咲爺」など、おとぎ話や歴史物語を素材にしたお伽歌劇が創作されていく。
小さな湯の町に花開いた宝塚少女歌劇は、大いに評判を集めた。その事業を拡大していくために、劇団は1919(大正8)年に「宝塚音楽歌劇学校」を創立し、文部省の認可を得る。こうして宝塚は、学校という枠組みを事業に組み込んだ。戦後に設立された渡辺プロダクション、ジャニーズ事務所といった各種芸能事務所は「養成所」を設け、タレントを育成するシステムを採用するが、その第1号が宝塚音楽学校だったことがここから分かるだろう。
ご当地アイドルの誕生
宝塚少女歌劇の好評を受けて、日本各地には類似団体が生まれていった。広島・料亭羽田(はだ)別荘が運営する羽田別荘少女歌劇をはじめとして、大阪・楽天地による琵琶少女歌劇と浪華少女歌劇、横浜・鶴見花月園による花月園少女歌劇、別府・鶴見園による鶴見園女優歌劇、福井・だるま屋百貨店によるだるま屋少女歌劇部(DSK)――いわば「ご当地少女歌劇」ブームが到来したのである。これら一群の少女歌劇のなかでも、大規模だったのは松竹による少女歌劇だった。松竹が設立した歌劇団は、大阪のOSK日本歌劇団や東京の松竹歌劇団(SKD)へと発展し、宝塚と人気を競うこととなる。
SKD、OSK、DSKといったアルファベット3文字の少女歌劇は、現在のAKB48(東京・秋葉原)に始まるSKE48(名古屋・栄)、NMB48(大阪・難波)などの数多くの「ご当地アイドル」に通じる。
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