日本人の「未熟萌え」の源流は宝塚? 恋愛禁止ルールはいかにして作られたか

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天才ビジネスマンの手腕

 宝塚歌劇団は、当初の名称を「宝塚少女歌劇」といい、創立者は阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創始者にして天才ビジネスマンの小林一三である。彼は箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の開発事業の一環として、この歌劇団を創設した。

 1907(明治40)年、34歳の小林は、創立されたばかりの箕面有馬電軌の専務取締役となり、鉄道事業に参入。その後、鉄道経営を中心とした郊外・住宅・観光地の開発事業を展開し、やがて阪急百貨店、宝塚歌劇団、阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)、東宝などの各種事業を通じて阪急東宝グループを形成した。この一大経営者の、最初の事業が箕面有馬電軌の経営だったわけだ。

 鉄道の開発計画は、大阪・梅田から箕面をつなぎ、池田を経て宝塚、温泉地・有馬へ至る遠大なものだった。だが、当時の箕面や宝塚は寒村そのもので、特別な名所や旧跡に恵まれているわけではない。

 そこで利用者の心をつかむために、小林は沿線の観光地化を進める。まず着手したのは箕面地域の開発で、なかでも1910(明治43)年に開園した箕面動物園は賑わいを見せた。この成功は、「子どものいる家族」をターゲットにした施設やイベントが沿線開発の鍵だと示す前例となった。

ファミリー向けの誘客策を徹底

 小林は次に、「家族向け」の誘客策を徹底することで宝塚の観光地化を進めていく。古くから宝塚は、温泉避暑地として知られていたが、鉄道の乗客を呼び込むためには新たな観光資源が必要だった。そこで彼は1911(明治44)年5月、宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)を新設、翌年には洋館の娯楽場「パラダイス」を開業する。

 宝塚新温泉は、湯治客や温泉芸者が集まる旧来の温泉街とは異なり、瀟洒(しょうしゃ)な建物、大理石の浴場、婦人化粧室、運動場、珍しい機械を導入したアミューズメント施設などを売りにしていた。ファミリー向けの誘客策を徹底することで、宝塚は親子連れの人気観光地として急成長する。そして、次なる一手として小林が企画したのが、宝塚新温泉での「余興」だった。

 1913(大正2)年7月、温泉客のための「余興」として、少女に唱歌や「歌劇」を披露させることが計画される。小学校を出たばかりの少女など16名が第1期生として採用され、「宝塚唱歌隊」なる団体が発足した。これが現在の宝塚歌劇団の原型である。

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