名投手「サイ・ヤング」の知られざる実像に迫る コントロールは天性? 努力の賜物?(小林信也)
沢村賞の方が早い
私たち日本人は、アメリカ人の思考や常識を現代の尺度で勝手に決めつけているところがある。例えば、「ドロップやナイターは和製英語で、アメリカでは通じない」と少年時代に教えられた。どうやら違うようだ。伊東が補足しているが、ドロップもナイターもアメリカで使われていた言葉で、「いまは使われなくなった」のだという。また、日本人は自分たちを卑下し、何もかも西欧人が優越だと思いがちな習性があるけれど、必ずしも正しくない。ついでに書くと、「沢村賞はサイ・ヤング賞に倣って制定された」と書かれる場合もあるが間違いだ。沢村賞は1947年に創設された。サイ・ヤング賞は彼の死後の56年からだから、沢村賞の方が9年も早い。
さらに、プロ野球の記録の歴史を詳しく調べている友人の室靖治(読売新聞)から、過去に新聞が報じたヤングの記事を教えてもらった。興味深いのは「六十八歳で投手コーチ開業」の見出しで、35年5月に報じられている読売の記事だ。
〈徃(わう)年の名投(とう)手サイ・ヤングは最近(きん)フイラデルフイア市の近(ちか)くに持つてゐた安住の農塲を賣り飛ばして親交者(しんかうしゃ)を驚(おどろ)かせてゐるがその理由(りいう)は昔(むかし)の杵柄を揮(ふる)つて各地のチームの中で下積みとなつてゐる老投手連(らうとうしゅれん)をコーチして廻(まは)るためだとある時にヤングは當年取つて六十八歳である〉
英語の伝記によれば、68歳で再びユニフォームを着たのは妻の死がきっかけ。「お金に困って昔の仲間と巡業に出た」と書かれている。まだ年金制度がなかった草創期のレジェンドの悲哀も感じられる。
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