石原慎太郎さん「お別れ会」 白い歯を見せニカっと笑った遺影を見て考えたこと
ジャケットにノーネクタイのその人は、祭壇の中央で白い歯を見せて、ニカっと笑っていた。それを見て、筆者の記憶は1999年へと巻き戻された。【武田一顕 ジャーナリスト・映画監督】
東京都知事に初当選した直後のことだ。石原慎太郎はホテルで会合に出席した後、記者団のぶら下がりに応じるため階下に降りるエレベーターに乗った。その場にいた筆者は石原と雑談していたのだが、見ると、石原のネクタイが少しだけ緩んでいる。
「知事、ワイシャツの第一ボタンが留まっていません」
そう声をかけた筆者に、彼はこう答えた。
「ネクタイなんか締めると、寿命が縮まるんだよ」
その時と同じ笑顔が祭壇の上にあった。
6月9日、石原慎太郎お別れの会が行われた。
当初4月に行われる予定だったが、3月に石原の妻・典子さんが死去したこともあって延期され、この日の開催となった。会場は渋谷のセルリアンタワー東急ホテル。渋谷という場所に意外な顔をする関係者も多かったが、東急の二代目・五島昇が石原を殊のほか可愛がった縁でここに決まったという。
発起人に名を連ねたのは7名。元総理の安倍晋三、作家の曽野綾子、電通相談役の高嶋達佳、幻冬舎社長の見城徹、田辺エージェンシー社長の田邊昭知、フジサンケイグループ代表の日枝久、読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄。しかし、曽野と渡辺は姿を見せなかった。ナベツネはコロナ禍で外出を極力控えているとのことだ。政界、出版界、財界、芸能界、都政関係、ヨット仲間……多芸多才な石原らしく、会には多様な顔ぶれが揃った。逝去から4か月経ったこともあって、しめやかな送別というよりも思い出を語り合う場となり、その様子はさながら同窓会だった。両親を亡くして傷心のはずの伸晃、良純、宏高、延啓の4兄弟も決して暗い表情ではなく、特に長男・伸晃は少しでも多くの人と言葉を交わそうと動き回り、時折笑顔も見せた。その表情に、やはり99年の石原が重なった。
ただの「シナ嫌い」ではなかった
石原が中国のことを支那と呼んで毛嫌いしていたのは有名な話だが、私の目には中国を終生恐れ、そして憧れさえ抱いていたようにも映る。
中国脅威論が勃興していた最中の2011年、都知事だった石原は私にこんな危機感を口にした。「中国の経済力が増している今、もし戦争になったら中国に負けてしまう」。北京特派員も経験し、中国の内情を少なからず知る私が、自衛隊と人民解放軍との軍事力の違いは大人と子どもの差ほどあることや、自衛隊の幹部が「もし戦争になったら(解放軍が)何週間持つか見ものだ」と話している旨を伝えてはっきり否定したところ、彼は黙っていた。
その翌年、石原は都知事を電撃辞任して国政に再度打って出る。そして、衆議院議員に返り咲いた後の2013年2月、石原は維新の議員として予算委員会でこう発言した。
「ミサイルの整備も含めて向こう十年間、私たちが通常兵器での戦闘でシナに劣ることはないというのは、日本の専門家、現役の軍人、あるいはアメリカのCIA、さらには一番情報を持っているイスラエルのモサドといった連中たちに聞いても、その評価は変わらない。ただ、十年たったらどうなるか分からない」
軍事力について取材し、冷静に分析しようとする石原は、ただのシナ嫌いではなかったのだ。
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