「慰安婦証言」はなぜ二転三転? 「慰安婦は売春婦の一種」発言で訴追された韓国人元教授が検証
吉田清治の『私の戦争犯罪』
日本では1983年、吉田清治という共産党員が『私の戦争犯罪』を出版した。著者の吉田が日帝時代に国家権力の命令で朝鮮女性を「強制連行」したと自ら告白したこの本は、出版とともにいわゆる「良心的」な日本の知識人と活動家たちから大きな注目を浴びた。それから6年後の1989年には「私は朝鮮人をこのように捕らえた」というタイトルで韓国語でも出版された。
日本では同書が出版されて約10年が経った1992年1月から、同書に出てくる証言を根拠に朝日新聞が大々的に「強制連行プロパガンダ」記事を書き始めた。韓国で1990年11月に活動を始めた挺対協が発足して間もない頃だ。日本列島中が大騒ぎになった。
吉田は「日本の良心」として浮上し、謝罪のために韓国を訪問するイベントも用意された。挺対協の立場からは、まさに貴人が現れたわけだ。1992年8月12日に訪韓した吉田は、京郷新聞のインタビューで、
「私は日本政府の命令で韓国人従軍慰安婦を強制送還した奴隷ハンターだった」
と公言し、「万が一、日本政府が最後までこれを否定すれば、天罰を受ける」とも語った。
「日本の悪い癖を直してやる」
当時、この証言を疑う人は誰もいなかった。日本帝国主義の蛮行を糾弾する世論が韓国はもちろん日本で沸き立ち、全世界に広がるようになった。
こうした世論を背景に、日本では1993年8月に内閣官房長官の河野洋平が「本人の意思に反して募集された事例が多く、さらに官憲などが直接これに加わったこともあった」と日本の責任を認める談話を発表した。一方で世界世論に応え、他方では悪化の一途をたどっていた当時の韓日関係を正常化させるという、日本政府の政治的かつ外交的な選択だった。
しかし韓国大統領の金泳三は「日本の悪い癖を直してやる」と豪語し、「中央庁」として使っていた「朝鮮総督府」の建物を撤去するなど対日強硬策に終始して、日本の努力は水の泡となってしまった。
続いて1995年にはオーストラリアのジャーナリスト、ジョージ・ヒックスが吉田の証言を主な根拠として『The Comfort Women(慰安婦)』という英語本を出版した。「大日本帝国軍隊の性奴隷」という扇情的副題をつけた本だ。これが日本の「慰安婦蛮行」を世界に知らせる窓口となった。
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