“余命わずかの不倫相手を看取りたい――” 夫の願いを知った妻が書いた「彼女宛の手紙」の中身
「彼女に渡して」という妻の手紙
2週間たったとき、咲紀子さんは「もう来なくていいよ」と言った。仕事を休んではいけないし、あなたは家庭に早く戻るべきだと。私に関わっていたらあとから大変なことになるでしょうと心配そうに言った。
「痩せた彼女の肩をそうっと抱きました。咲紀子ちゃんはそんなことを気にしなくていい、と。すると彼女、『死んでいくから?』と反論してきたんです。『死んでいく人間はあとのことを気にしなくていいということ? バカにしないで』って。確かに僕は心のどこかで、彼女をかわいそうだと思っていた。でもそれは彼女を傷つけることだった。このことをとても後悔しています」
翌日、妻から「彼女に渡して」と手紙を託された。何が書いてあるのかわからない。彼女をもう傷つけたくない。だが妻の気持ちも無にしたくなかった。こっそり封を開けることもできず、彼は手紙を咲紀子さんに渡した。
「咲紀子ちゃんはその場で、開けてと僕に言いました。開けて便せんを渡すと、彼女はいきなりふふっと笑ったんです。僕が覗いてみると、そこには『元気になって。ケンカはそれからよ 佳代』とだけ書いてあった。咲紀子ちゃんは泣いていました。素敵な妻をもってよかったねって」
その1週間後、咲紀子さんは静かに逝った。お通夜もお葬式もなく、遺体は火葬場に直行、憲司さんはひとりで骨を拾った。妻は行くのを控えると言った。
「遺骨を持って帰って、自宅の自分の部屋に置きました。妻が『さっき届いたのよ』と封書をもってきた。咲紀子ちゃんからでした。乱れた文字で『ありがとうございました。ごめんなさい』と書かれていた。妻は静かに『しばらく別れて暮らしましょう』と。そうだねと言うしかありませんでした」
コロナ禍直前のできことだった。憲司さんは自宅近くに小さなアパートを借り、そこで暮らすようになった。あれから2年数ヶ月、彼はいまもそこで生活している。
「ときどき自宅に戻ります。高校生になった息子が妻がいないときに『どうして別居してるの?』と聞いてきたことがあるんです。『おかあさんとの意見の不一致かなあ』と言ったら、『ま、いろいろあるよね。お互いに冷静になって、いい方向を見つけてほしいけど』と受け止めてくれた。大人だなあと驚きました。そりゃそうだよ、もうじき成人だよと言われて。そうか、18歳で成人だもんなあ。こいつの人生はどうなるんだろう、こんなオヤジをもって情けないと思う日が来るかもしれないといろいろ考えました」
咲紀子さんの遺骨は今も憲司さんのアパートにある。お墓を建ててやりたいと思いながら、なかなか実現できないでいる。彼女の親戚に連絡をとってみたが、「彼女の親ももういません。遺骨は適当に処分してください」と言われた。どんな過去があったのかわからないが、あまりにも冷たいことに慄然としたという。
「今になって思うんです。彼女は幸せを感じる瞬間があったのだろうか、と。僕と関わらないほうがよかったのではないか、もっと彼女を幸せにしてくれる人がいたのではないか。無駄な5年間を過ごさせてしまったのかもしれない。何をどう考えても、あのときこうしていれば、ああしていればと後悔ばかりしています」
何度も言葉を詰まらせながら、ときには涙を飲み込むようにしながら、彼は誠実に話し続けた。
自分の将来はまだ見えてこない。それでも、彼の行く道もまだ長い。
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