“余命わずかの不倫相手を看取りたい――” 夫の願いを知った妻が書いた「彼女宛の手紙」の中身

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 連城三紀彦氏の小説に、直木賞を受賞した「恋文」がある。余命いくばくもない独身時代の恋人の最期を看取るため、妻に離婚を迫る夫と、その夫を愛しているがゆえに拒否する妻。かつての恋人は実際には何もかも知っており、3人が葛藤しながら時間だけが進んでいく、せつない大人の愛を描いた物語だ。【亀山早苗/フリーライター】

 岡元憲司さん(47歳・仮名=以下同)の経験のあらましを聞いたとき、まさに小説のようだと感じた。本人にそう言うと、そうなんですよねとうなずいた。

「ただ、僕は小説をあまり読まないので、知らなかったんです。あとから妻に聞いて読んでみました。僕ら3人は小説の登場人物のように、悩みながらも最後はみんなが相手を慮ることができたんだろうか。考え込みましたね」

 妻の気持ちをわかりながらも離れていった小説の主人公とは違い、憲司さんは妻から拒絶されて別居しているとつぶやいた。

 憲司さんが、同い年の佳代さんと結婚したのは30歳のとき。友人の飲み会で出会い、話しやすい人だなと好感をもち、デートに誘った。彼女も同じように思ってくれていたことを知り、つきあうようになった。

「つきあって半年くらい経ったころかな、うちの親、離婚してるんだという話をしたら、佳代が『うちも』って。そこから一気に心が通い合いました。親が離婚した時期も似ているんですよ。うちは僕が12歳のとき、彼女の家は11歳のとき。僕も彼女もひとりっ子。違うのは彼女が母親に引き取られ、僕は父に引き取られたこと。彼女は経済的に苦労したようです。僕は父が再婚した相手との折り合いが悪くて苦労した。大人の都合で振り回されたけど、自分の人生は自分で切り開かなくちゃねと前向きに一致したのもうれしかった」

 出会って1年でふたりは結婚した。根底につながりあうものがある。それは決して幸せとはいえない生まれ育った家庭環境だが、心の根の部分にある負の感情を分かち合えるのは安心感があった。

子供が産まれ、独立し…

 佳代さんは高校を卒業して働きながら大学の二部を卒業、さらに学士入学で昼間の別学部に通って政治経済を学んだ。

「昼間、通うようになってからは夜は水商売で稼いでいたそうです。とにかく彼女は自分のキャリアを積むために必死だったと。偉いですよね。僕は再婚後の父ともほとんど口を利かない状態でしたが、学費だけは出してもらったので、大学へ行っても遊びほうけてしまった。そこが佳代と僕の違いです」

 佳代さんはベンチャー企業に就職、そこでも20代後半になると、周りから一目置かれるようになったという。

「結婚して3年目で息子が産まれました。妻は『かわいすぎて仕事に戻れない』と言っていましたが、5ヶ月ほどたつと保育園に預けて仕事に復帰しました。やはり仕事をしていないと自分が保てないんだと思う。ふたりとも親の縁が薄かったせいか、どこかで自分を支えているものが、愛情や人間関係ではないと思っているところがあるんです。僕も彼女も、仕事というものが自分の土台にあると思っていた」

 憲司さんは36歳のときに、会社の同期で心許せる友人とIT関係の企業を興した。自宅近くに小さな事務所を構え、死に物狂いで働いたという。一方で子どものめんどうを見るのも苦にならなかったから、夜は一度、自宅に戻って家事や育児をし、再度会社に戻る日々が続いた。

「妻と話し合って、必ずどちらかが子どものめんどうを見ていました。息子が小学校に上がったとき、オレたち、がんばったよねと祝杯をあげた。そのくらいふたりとも大変でした。でも、あのころがいちばん充実していたような気がしますね」

 息子が小学校に上がって、ほんの少し「隙間」のような時間ができるようになった。仕事も軌道に乗り、ふたりで始めた会社は、他に4人の社員を抱えるところまできた。共同代表の友人は、かつての会社でともにバンドを組んでいた仲間でもある。

「また音楽をやりたいねと言っていたんですが、彼は学生時代の仲間とバンドを組む計画があるから一緒にやらないかと誘ってくれました。ただ、僕はそれまでやっていたギターではなく、ドラムをやりたくてしかたがなかった。だからとりあえず参加は見送って、ドラムを習いにいくことにしたんです」

 妻も「隙間」を見つけたのか、陶芸を始めた。結婚して9年、週に1日、ほんの1、2時間、ふたりはそれぞれの趣味に没頭するようになった。

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