「鎌倉殿の13人」を楽しむために…義経亡き後、頼朝は史書でどう描かれているか
はっきりしない頼朝の死、三谷氏は史書の隙間をどう埋めるか
これで頼朝にも周囲にもやっと平穏な日々が訪れたのかというと、そうはいかない。頼朝による殺害は続いた。次なる標的になったのは弟の範頼(迫田孝也)である。
きっかけは巻狩り。法皇の喪が明けた1193年4月以降、頼朝は巻狩りを開始した。巻狩りとは、狩場を大勢で包囲し,獲物を追い詰めて仕留める大掛かりな狩猟法。祭儀とレジャーの両方の意味合いがあったため、喪中はやれなかった。
同5月8日から駿府国(現在の静岡県中部)の富士山の裾野で行われた巻狩りで事件が起きた。同28日夜、過去に八重(新垣結衣)の兄・河津祐泰(山口祥行)を殺害した工藤祐経(坪倉由幸)が、祐泰の子供2人に仇を討たれた。子供2人が曽我姓になっていたので「曽我事件」と呼ばれる。
工藤が討たれたのみならず、巻き添えでほかの御家人たちも死傷した。このため、鎌倉には「頼朝も死んだ」と誤情報が流れた。これが、範頼が粛正される理由となる。
『保暦間記』によると、誤情報に政子(小池栄子)は狼狽。そんな政子に対し範頼は「自分がいるから鎌倉は大丈夫」と声を掛けた。力付けたのだろう。ところが、この言葉を頼朝は「謀反の意思あり」と受け取った。
ここまでなら身内も信じない頼朝らしいが、範頼の場合、本当に謀反を考えていたフシもある。その後、なぜか範頼の腹心が、頼朝の寝室の床下に潜んでいたのだ。この巻狩りには頼朝の後継者・頼家(金子大地)も参加していたため、範頼はその命も狙っていたと疑われてしまった。
同8月、範頼は伊豆の修善寺に連行され、幽閉された。そこで処刑されたと考えられている。ちなみに範頼の妻・亀御前の父親は、頼朝の最古参の側近で、やがて鎌倉13人衆にも加わる安達盛長(野添義弘)。いつも通り、骨肉の争いだった。
その後の頼朝は徐々に運から見放されていく。1196年11月、親しい実兼が関白を解任されてしまった。朝廷内の無血クーデターだった。
それでも頼朝は実兼を救わなかった。クーデター派に付いたほうが、メリットがあると踏んだからだ。当時、頼朝は大姫(南沙良)を後鳥羽天皇の妃にしようと画策していた。それにはクーデター派と組んだほうが近道だと考えた。頼朝はどこまでも頼朝なのである。
ところが翌1197年7月、闘病生活の末に大姫が亡くなる。まだ19歳だった。頼朝に入内工作をさせられたことも体に悪影響をもたらしたと考えられている。
それでも頼朝は懲りず、今度は次女の三幡を後鳥羽天皇の妃にしようとした。その三幡も1199年6月30日、14歳で病死する。
頼朝が53歳で他界したのはその半年前の同1月13日。だが、『吾妻鏡』には同1月の記載が全くない。幕府が混乱していたからだろう。
ただし、なぜか13年後の1212年2月になって、頼朝の死に触れた下りが登場する。それによると、頼朝は1198年、相模川橋(神奈川県茅ヶ崎市)が新造された際の橋供養に出席した。その帰りに落馬。ほどなく死去した。ちなみに橋供養とは渡り初めの前に、橋の上で行う儀式だ。
この橋供養が行われたのは1198年12月27日。頼朝は年が明けた1月11日に出家しており、その2日後に死亡したことになる。なぜ、落馬後に出家し、その2日後に他界したのか。釈然としない。
『猪隈関日記』には頼朝の持病である飲水病(糖尿病)が悪化したので出家したものの、死去したとある。こちらのほうが説得力を感じさせるが、そうであるなら『吾妻鏡』に病の記述がないのが解せない。
落馬も病死も決め手に欠ける。このため、不満御家人による暗殺説が消えない。
さて、三谷氏は史書の隙間をどう埋めて、視聴者を満足させるのか。
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