「鎌倉殿の13人」を楽しむために…義経亡き後、頼朝は史書でどう描かれているか

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義経と後白河法皇、長く微妙な関係だった2人がやっと……

 奥州を制圧し、自分にとって脅威になりかねない存在が消えたことから、頼朝は1190年11月7日、京に入る。1180年8月に伊豆国(静岡県南部の半島および伊豆諸島)で挙兵してから初めてのことだった。

 入洛から2日後の同9日には法皇と会談した。その後も2人は会談を重ね、計8回も話し合った。

 その中で頼朝は法皇に尽くすことを誓う。頼朝は朝廷に抗う気がないことを示すため、上総広常(佐藤浩市)をダシに使った。

 広常は三谷脚本が第15話で描いた通り、御家人たちが謀反の動きを見せたことから、頼朝によって見せしめで殺されたとの説が有力だ。けれど頼朝は法皇に対し「広常が入洛に反対したが、それは朝廷を軽視することだから、粛正した」と説明した。『愚管抄』にはそうある。

 確かに広常は関東の平定を強く主張していたものの、この頼朝の言い分は詭弁にほかならない。広常があわれだ。

 一方、法皇としても一人勝ち状態となった頼朝に睨まれては自分の権力が維持できない。かくして長く微妙な関係だった2人が、やっと手を握った。

 この入洛で頼朝は親しい間柄の摂政・九条兼実(田中直樹)とも会談する。兼実の日記『玉葉』にはそうある。2人はポスト法皇体制についても話し合った。

 この時点で法皇は64歳。崩御したら、11歳の後鳥羽天皇(尾上凛)が朝廷の最高権力者になる。だが、この年齢では政治全般を取り仕切るのが難しい。

 そこで頼朝は「後鳥羽天皇体制になった後も兼実を支援する」と約束した。兼実にとっては喜ばしい話だったものの、頼朝の狙いは先々まで自分が朝廷とうまく付き合うことにあった。人間性はともかく、頼朝は政治家としては一流だった。

 翌1191年、図らずも法皇は病に罹り、1192年3月14日に崩御した。66歳だった。ここでポスト法皇体制の話し合いが生きる。頼朝の後押しもあって、朝廷の実権は関白になった兼実が掌握した。

 法皇崩御から約3カ月後の同7月、頼朝は「大将軍」任官を朝廷に申し入れた。渋られたら赤っ恥だが、実権を握っているのは自分の息の掛かった兼実だから、その心配はなかった。頼朝は後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任ぜられた。

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