キャンディーズ、太田裕美から、吉川晃司、森口博子まで……「スクールメイツ」が生み出した「未熟さ」を武器とする芸能文化

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 ジャニーズ、AKB、宝塚……日本の芸能界のスターたちには、世界のトップアーティストに比べると、どこか「ひたむきさ」「健気さ」「アマチュア性」を感じさせるところがあります。ファンの間では、実力の高さや技芸の完成度は、必ずしも人気の絶対条件とはならず、むしろ敬遠されることすらあるといいます。

 そのような日本独特の芸能文化はどのように生まれたのでしょうか。社会学者の周東美材さんの新刊『「未熟さ」の系譜―宝塚からジャニーズまで―』から、一部を再編集して紹介します。

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ナベプロが設立した音楽学校

 日本のポピュラー音楽文化には、世界的に見ても稀有な特徴が存在する。その特徴とは、「未熟さ」である。たとえば、卓越した歌唱力や官能的な魅力ではなく、若さや親しみやすさによって人気を得るアイドルが多いのは、誰もが感じていることだろう。

 そのようなアイドルを多く生み出してきた芸能プロの一つが「ナベプロ」(渡辺プロダクション。ワタナベエンターテインメントを含む複数の関連会社を有する持ち株会社)である。

 ナベプロは、1960年代を通して事業を拡大し覇権を確立していくと、さまざまなテレビ番組に所属タレントを派遣するために多くのタレントを必要とするようになっていった。はやり廃りの激しい人気商売にとって、なかでも新人タレントの発掘・養成は、事業継続の生命線となる。そこでナベプロは、新人タレントを安定的に生み出すためのひとつの手段として、東京音楽学院という学校組織を設立する。

 この新たな発掘・養成システムは、1961年、ナベプロ社長・渡邊晋の夫人でプロモーターの渡邊美佐が渡米時に着想を得たものだった。彼女は、ホテル滞在中に見たミッチ・ミラー合唱団の番組に関心を示し、この番組に出演していた「歌い踊る若い合唱団のアマチュアぽさに新鮮な魅力」を感じた。それをきっかけにして、1963年には東京音楽学院を開校して美佐が学院長に就任、東京を中心に大阪校、九州校、広島校、名古屋校を次々に新設し、多数の生徒を集めたのである。

「スクールメイツ」の誕生

 1964年、渡邊美佐は、将来タレントに成長することが期待される学院生をピックアップして「スクールメイツ」という名のチームを発足させた。スクールメイツは30人を基本とし、コーラスやダンスができる健全でフレッシュな10代の若者によって構成された。

 講師陣には宮川泰、東海林修、森岡賢一郎、服部克久らの作曲家、西条満、土居甫ら振付師が名を連ね、このチームは茶の間のテレビにふさわしいパフォーマンス集団として、歌番組などに賑わいを与えていく。スクールメイツは、渡邊晋の信念に従い「ファンが遥るかに仰ぎ見るようなスターになってはならない」とされ、「ファンから半歩先にいる“若い仲間”たち」であることが求められた。1965年には、東京音楽学院に通う生徒は約200名を数えるに至っていた。

 スクールメイツといえば、いまでは「昭和的テレビ」を演出する小道具として再現されることがある。だが、スクールメイツは単なるダンス・チームではなく、次世代のスターやアイドルを養成する機能も担っていた。ナベプロは1955年の設立以降、米軍基地で苦楽を共にした仲間のジャズマンや、名古屋でスカウトしたザ・ピーナッツのようなタレントで運営されてきたが、そのように事務所の外部に新人を求めるばかりでなく、自前の発掘・養成システムを内部に構築していったのである。

 最初期にはフォー・メイツという、ジャニーズに似た4人組の男性グループが結成され、「シャボン玉ホリデー」などに出演した。これを皮切りに、ナベプロは学院を通じて布施明、森進一、槇みちる、じゅん&ネネ、青山孝(フォーリーブス)、野口五郎、高橋真梨子、キャンディーズ、太田裕美、あいざき進也、笑福亭笑瓶、吉川晃司、森口博子などをスクールメイツのメンバーとして育成した。

 1970年代の代表的なアイドル・グループとなるキャンディーズの三人は、スクールメイツからNHKの番組アシスタントへ、さらには大人気番組「8時だョ!全員集合」に1973年4月から出演して茶の間の人気者になっていった。こうした下積みとプロモーションを経て、同年9月、キャンディーズとしてデビューしたのである。スクールメイツは、茶の間向けの健全さを維持しつつも、次第に「ヤング」との結び付きを強め、70年代前後のアイドルの供給源となっていった。

イモトアヤコやハライチも育成機関出身

 1980年代以降、スクールメイツの勢いは次第に低調となるが、学校という枠組みやイメージを利用したナベプロの新人タレントの発掘・養成は続けられていく。2000年代に入ると、2004年に芸能スクール「ワタナベエデュケーショングループ(WEG)」を設立し、ワタナベエンターテイメントカレッジ、ワタナベエンターテイメントスクール、ワタナベコメディスクール、渡辺高等学院、ワタナベNオンラインハイスクール、渡辺大阪芸術学院、渡辺ミュージカル芸術学院といったグループ校が次々に設置された。なかには渡辺高等学院などのように高等学校卒業資格が取得できる学校も運営されている。これらの育成機関の卒業生にはイモトアヤコ、ハライチ、志尊淳、山田裕貴、Little Glee Monsterらがいる。

 ナベプロは、学校という枠組みやイメージを導入することで、旧来のスカウトや内弟子制度とは異なる発掘・養成システムを樹立していった。渡邊美佐によってアメリカから持ち帰られた着想は「学校」という枠組みやイメージを通じて具現化し、これによりナベプロは絶えずタレントが補給される自律的なシステムを手に入れていったのである。

制服を着て歌うアイドル

 さらに、芸能興行に学校という枠組みやイメージを取り入れる手法は、日本の音楽産業のひとつのビジネス・モデルとして定着してもいった。たとえば、1980年代のおニャン子クラブはデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」やドラマ「スケバン刑事」への出演などを通じて女子高校生というアイドル・イメージを固めていき、1990年代の桜っ子クラブさくら組では加藤紀子、井上晴美、持田真樹、中谷美紀、菅野美穂らが制服を着て歌った。

 秋元康プロデュースのAKB48グループや坂道シリーズのアイドルにとっても、制服は定番の衣装となっており、それどころかAKB48グループの衣装制作を担う「オサレカンパニー」は実際の学校制服の企画・デザインにさえ携わっている。

 また、2009年に結成された私立恵比寿中学は「永遠に中学生」をコンセプトとし、アイドル自らが「生徒」を名乗り、ライブやイベントを「学芸会」と位置付けている。さらに、その男子部であるEBiDANは歌い手のみならず俳優の育成にも力を入れ、森崎ウィン、仲野太賀、横浜流星、北村匠海らが輩出してきた。

お笑いからダンスまで

 笑いの分野では、吉本興業も吉本総合芸能学院(NSC)を1982年に開設、2021年には高卒資格取得可能な吉本興業高等学院を開校している。ダンスの分野に目を向ければ、EXILEなどを生んだ芸能プロダクションLDHも、2003年にダンス・スクールEXPG STUDIOを開校し、プロのエンターテイナーを目指す子どもや若者にダンス・レッスンを行っている。

 そればかりか、角川ドワンゴ学園N高等学校と提携して高卒資格を取れるEXPG高等学院を2020年に設置し、EXILEのTETSUYAが学長に就任した。いまや芸能プロダクションが運営する育成機関は、タレントの発掘・養成やプロモーションの手段であることを超えて、正式な制度として学校教育の一端を担うに至っているのだ。

 以上のようにして、「未熟さ」を武器とする日本独自のポピュラー音楽を生み出す仕組みが築かれていったのである。

デイリー新潮編集部

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