懐かしい「ブックマッチ」が生産終了へ ご存知ない方のために製造会社に聞いた
神戸が一大生産地
――作り手としては、製造中止をどう思っているのだろう。
「ブックマッチの製造機は結構大きいんです。製造数が落ちている中、機械のメンテナンスやコストを考えると、残念ですがやむを得ないと思います。製造機も50年近く働いてきましたから」
――日東社は、通常の木軸のマッチでは国内最大手である。そちらのほうは今後も製造を続ける。
「幸い、製造をやめたところから機械部品を引き継いだりしているので、今後も続けていきます。通常のマッチも年々減っていますが……」
現在、国内のマッチ生産量は、最盛期の100分の1という。ここからは一般社団法人日本燐寸工業会(兵庫県神戸市)に聞いた。
「軸木の先端の薬剤を摩擦で発火させるマッチが販売されたのは19世紀初めのイギリスでした。日本では、1875(明治8)年に東京で清水誠という人が製造したのが最初です」(日本燐寸工業会:以下同)
瞬く間に全国にマッチ製造が広まったという。
「それまで火打ち石で発火させるのが一般的だったのと比べ、マッチは圧倒的に便利だったからです。神戸では1877(明治10)年から製造が始まりました」
神戸はマッチ製造の一大拠点に成長していく。
「県内には50近くのマッチ会社があったそうです。当時、マッチの薬剤は天日で乾燥させていたため、晴天の多い瀬戸内が適していたこと、神戸港で力を持っていた華僑が中国やシンガポールなどに輸出したためと言われています」
最盛期の1907(明治40)年には、全国で114万マッチトン(1マッチトン=約35万本)が生産され、8割ほどが輸出されたという。明治から大正にかけて、日本はアメリカ、スウェーデンと並ぶ三大マッチ製造国と呼ばれた。
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