「被害を与えたことをお詫び」重信房子・元最高幹部が出所後、真っ先に向かった「支援者の祝賀会」
「マリアン」「フウちゃん」と呼ばれる
2000年11月、55歳の時に大阪府高槻市で逮捕されて東京へ護送される際、手錠でつながれた両腕を胸の前に掲げ「頑張るからね」と支援者に笑顔を見せて颯爽と歩いた時の印象とも違う。当時、筆者は通信社の大阪社会部にいた。デスク陣は「大変だ。重信房子が逮捕された」と色めき立ったが、現場の若い記者が「重信房子って誰ですか?」。あれからも既に20年余。知らない若者も多いはずだ。
「本当に彼女が最高幹部だったのか? 実際のトップは奥平剛士(1972年にイスラエルのリッダ空港で自爆死。重信氏とは婚姻関係にあった)とか、丸岡修(1987年逮捕、2011年獄死)ではなかったか」と見る事情通もいる。アラブ名「マリアン」と呼ばれた重信氏と行動を共にし、後に爆殺されたPFLP(パレスチナ解放人民戦線)スポークスマンのガッサーン・カナファーニー氏が、若くてチャーミングな東洋女性を日本赤軍の“広告塔的存在”にしたのか。筆者にはわからない。ただ、仲間ら7人が逃亡中の2001年に、日本赤軍を解散させた重信氏は、最高幹部たる力は持っていた気がする。
「フウちゃん」と呼ばれ、貧しかったが愛情を受けて育った。働きながら明治大学文学部史学地理学科の二部(夜間)に通い、学生運動から革命運動に身を投じてゆく。突然、異国に渡ったのは、周囲も驚きだったようだ。
鹿児島出身の父親(末夫氏=故人)は戦前、「五・一五事件」や「血盟団事件」に関わった右翼活動家だ(父について房子氏は右翼という表現を嫌い、民族主義者としているという)。「現状打破」において娘と共通するものがあったのか、娘に理解を示したため、日本赤軍の起こした事件で「責任を取れ」と猛烈な非難を浴びた。事実、連合赤軍関係者の父親の中には、自殺者まで出ている。だが『重信房子がいた時代 増補版』(由井りょう子著、世界書院、2022年)によれば、末夫氏は「一人前の成人の娘のしたことに、父親が謝る必要はない」と一貫して謝罪を拒否した。
出所後、祝賀会に
重信氏は、「あさま山荘事件」や「連合赤軍のリンチ事件(山岳ベース事件)」などが起きる前年の1971年にレバノンに出国している。その後、活動仲間だった遠山美枝子さんがリンチで凄惨な死を遂げたことに衝撃を受けたという。
日本赤軍が世界を最も震撼させたのは、1972年5月30日、イスラエルのテルアビブにあるベン・グリオン国際空港(当時はロッド空港と報じられた。アラブ名はリッダ空港)で同軍の兵士が自動小銃を乱射し、市民ら26人を殺害した事件だ。実行犯の奥平剛士と安田安之はその場で自爆死を遂げたが、岡本公三(74)はレバノンに政治亡命している。しかし、当時はまだ日本赤軍と名乗っていたわけではなかった。
重信氏本人が「指示役」として関わったとされたのは、1974年、フランスで拘束されていた仲間の釈放を求めてハーグ(オランダ)のフランス大使館を武力占拠し、戦闘で警官らを負傷させた事件だ。逮捕監禁などの容疑で国際手配され、大阪で逮捕され、殺人未遂罪などの共謀共同正犯の罪で起訴された(2010年に懲役20年が確定)。
その日の昼に開かれた支援者による祝賀会に、知人の厚意で参加できることになった。メイ氏との約束でその場の状況を詳しく書くわけにはいかないが、終了近くになり、持参した重信氏の最新刊『戦士たちの記録 パレスチナに生きる』(幻冬舎)に図々しくもサインをせがんだ。「あら、間違っちゃったわ。ごめんなさい」と筆者の名を一度書き損じながら丁寧にサインしてくれた。
重信氏の名を覚えたのは1970年代、高校生の頃。当時、どこまで理解していたかはともかく、レーニンやトロツキーの著作、ゲバラ伝、毛沢東語録、高橋和巳の小説など、いわゆる左翼書籍を読み漁っていた。そんな折に新聞や雑誌で見た、銃を立て長い髪を風になびかせた女性革命家の写真に、「カッコいい日本女性がいるなあ」と感じた。新聞より雑誌を賑わせた女性だった。
あれから半世紀。小生も「超大物女性」と直接対峙して緊張し、「今日はおめでとうございました。お疲れさまでした」を繰り返すのが精一杯。体育会系のノンポリ学生となり、その後も平凡な日々を送る筆者にとって、常に命を狙われながら革命に生涯を捧げた重信氏による釈放日の直筆サインは、郷愁も相俟って宝物となった。