岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」
三島事件の衝撃
同年4月、鹿児島大学は学内への機動隊導入を決定。少なくとも表面的には、学生運動が“沈静化”した。岡本は9月から大学に復帰し、再び真面目に通うようになった。
激動の時代という形容にふさわしく、11月には作家の三島由紀夫(1925〜1970)が「楯の会」メンバーの4人と共に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を“占拠”。自衛隊員にクーデターを呼びかけた後、割腹自殺で死亡した。
この事件は、岡本に衝撃を与えたようだ。自分自身は“極左”でありながら、三島への共感も読み取れる一文を残している。
《三島由紀夫の事件が起きた。彼の美学からすれば、三島はなぜ独りで朝日の昇る海をみつめながら腹を切らなかったのか。が、骨のない左翼人に対する警告の意味で、三島事件は前向きに受け止められるべきである。私はよく思うのだが、あらゆる意味での「日本らしさ」の欠如に対して、危機感を感じることのできない自称左翼人と、その限界性はあれ、危機感を覚え、採算を度外視した行動をとることができた三島由紀夫と、どちらが「左翼的」なのか》
翌1971年、集会に参加するよう指示され、岡本は上京した。だが、やはり内容には幻滅したと記している。
ベイルートからの使者
この頃、テルアビブ空港乱射事件で死亡した奥平と、その偽装結婚の相手だった重信房子(76)が、ベイルートに旅立っていったという。
重信は1971年、「国際根拠地論」を打ち立て、パレスチナに拠点を作ると決断。後に日本赤軍の最高幹部となり、80年代にハイジャック事件や誘拐事件を引き起こした。
2000年、大阪市西成区のマンションに潜伏していたのが発覚。重信は旅券法違反などで大阪府警に逮捕された。2001年には獄中で日本赤軍解散を発表している。
2010年に懲役20年の刑が確定。そして今年の5月28日、重信は刑期満了を迎えた。テルアビブ空港乱射事件も、あさま山荘事件も、今年で50年目を迎える。
重信の刑期の満了日が28日、乱射事件が30日と、日付は極めて近接している。事件から50年という“節目”に出所するということと併せ、ある種の奇縁を感じる人は多いだろう。
時計の針を1971年に戻す。《夏休みの終わりごろ》ベイルートからの手紙を持った使者が岡本の元を訪れた。すぐに日本を出ることを決めたが、《あまりアッサリ決めたので、使者のほうが驚いた様子》だったという。
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