岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」
1972年5月30日、イスラエルで日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起きた。今年で事件発生から50年を迎えることになる。(敬称略)
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【閲覧注意】テルアビブ空港乱射事件では、死者26人、負傷者72人と多くの犠牲者が出た。空港からは救急搬送される被害者が相次いだ
テルアビブのロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で、奥平剛士(1945〜1972)、安田安之(1947?〜1972)、岡本公三(74)が自動小銃を乱射した。26人が死亡し、73人が重軽傷。当時、奥平は27歳。安田と岡本は25歳だった。
岡本は拘束されたが、奥平と安田は死亡した。「奥平は射殺され、安田は手榴弾で自爆した」という説もあるが、未だに真相は明らかになっていない。
当時、日本での学生運動は下火となっていた。だが、退潮と反比例するかのように、行動は過激なものとなっていた。
無差別テロの主犯である3人も、奥平と安田が京都大学、岡本が鹿児島大学に入学し、在学中から学生運動に関わっていた。
ちなみに、テルアビブ空港乱射事件は「日本赤軍メンバー」による犯行と言われているが、これは厳密に言えば正しくない。
犯行当時、「日本赤軍」という名称は使われておらず、3人はパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の国際義勇兵という位置づけだった。「日本赤軍」と自称するようになったのは1974年以降のことだ。
ただ1人、生き残った岡本は、イスラエルの裁判で終身刑が確定した。空港近くの刑務所に服役していたが、1985年にイスラエルとPFLPとの捕虜交換が成立して釈放された。
平凡な大学生
岡本はイスラエルでの拷問が原因で、統合失調症を罹患したことが明らかになっている。これまでに何度か日本メディアの取材に応じており、現在はレバノンで生活している。
話を元に戻す。事件から3年後、岡本は獄中手記を週刊新潮に寄せた。1975年8月28日号に、特別記事「テルアビブまでの旅」として掲載された。
原文は11ページという週刊誌では異例の“大作”だが、事件の大きさを考えれば当然だろう。この記事では、できる限り内容を詳しく紹介したい。
岡本たち3人はロッド国際空港で、何の罪もない一般市民に向かって、自動小銃を乱射した。現在の軍事用語を使えば、“ソフトターゲット”を標的にしたテロ行為だと言える。
岡本は鹿児島大学の農学部に進み、《植物生理の研究室にマジメに通》っていた。平凡な大学生が狂気のテロリストに変貌した理由は、次兄の影響が大きかったようだ。
次兄の岡本武(1945〜1988?)は京都大学農学部に進み、1968年、東大安田講堂事件に参加。その後、仲間と共に1970年、よど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命した。
ちなみに長兄も京都大学に入学し、羽田闘争などの学生運動に関わった。京大、京大、鹿児島大という3兄弟は、「できのいい兄弟」として近所では有名だったという。
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