「竜ちゃんがいなかったら有吉は辞めていた」 高田文夫氏が明かす“竜兵会”の絆

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志村けんさんとの出会い

 ダチョウ倶楽部が頭角を現したのは89年から96年まで放送された「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」(日本テレビ系)だった。

 同番組の構成作家を務めていた、お笑い評論家で江戸川大学教授の西条昇氏が言う。

「ダチョウ倶楽部の三人は、コントをやっていきたいと当初は番組からのオファーを断っていました。実際に出演しても、イマイチなリアクションで出演シーンがカットされていたほどでした。危機感を覚えた三人がオーバーなリアクションで笑わせはじめると、スタッフから“ダチョウのリアクションは面白い”と賞賛を受けるようになったのです」

 上島さんは94年に広川と結婚。さらに、転機となったのは、2年前に新型コロナウイルスで亡くなった志村けんさん(享年70)との出会いだった。紹介したのは元プロレスラーでタレントの川田利明である。川田が語る。

「もともと先輩のプロレスラーが志村さんと知り合いで、ほどなく私も会食する仲になったのです」

 志村さんと上島さんを引き合わせたのはいまから二十数年前だった、と続ける。

「麻布十番の焼き肉屋で深夜、志村さんと食事をしていたら、志村さんが“上島と知り合いなら呼んでくれ”と言うのです。言われるがまま、竜ちゃんに電話すると、“芸能界の大先輩だから畏れ多くて……会うのも嫌だ”とためらっていました。そこで志村さんが私の電話を取り、“いいから、四の五の言わずに来い”と。それが二人の初対面でした」

会計は高い時で十数万円

 一時代を築いたコメディアンと意気投合した上島さんは、次第に志村さんの番組にも呼ばれるようになる。さらに、2001年にダチョウ倶楽部が文化放送の番組でパーソナリティーに就くと、所属する太田プロの後輩芸人との交流が始まる。これがいまに至るまで連綿と続く「竜兵会」の原型である。

 竜兵会メンバーの証言を集めた『サラリーマン芸人。』(竜兵会著・双葉文庫)によれば、お笑い芸人のデンジャラスや土田晃之らがダチョウ倶楽部のラジオに出るようになり、番組後にギャラの代わりとして飲み会が開かれていたという。

 竜兵会に出入りする芸人も増えていき、その中には、劇団ひとりや有吉弘行もいた。会は東高円寺の居酒屋で開かれることが多かったものの、店は16年に閉店。もう一つの御用達だった新中野の韓国料理店「オジャンドン」の店主によれば、

「15年くらい前に劇団ひとりさんの紹介でいらっしゃって、次第に有吉さんも含めた竜兵会の面々と来るようになりました。ピーク時は週に6回も来店いただき、会計は最も高い時は十数万円にもなった。基本的に上島さんが払い、リーダーの肥後さんが払うこともたまにありました。最後にいらっしゃったのは昨年の10月頃でした」

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