効率性最優先の時代は終わった? 求められる新たな国家像とは
コロナで「口を塞がれた」日本社会
インバウンドが格好の例です。インバウンドとは、日本社会を人体に例えると、毛細血管(地方)の隅々にまで外国人観光客が落とすお金を回らせて儲けようとするシステムです。国がインバウンド推進という液体をポトッと垂らすことで、地方の至るところにまでその恩恵が薄く、広く、行き渡る単一的な社会構造を目指したわけです。一見、簡単で賢く、合理的に見えます。つまり、「見通しが良い」。
しかし、コロナ禍によって外国人が入国できなくなってしまい、日本社会は、いわば「口を塞がれた」格好となった。結果、毛細血管に酸素は送り込まれず、日本全体が一気に窒息してしまいました。銀座には中国語と韓国語のアナウンスが響き渡っているのにどこにも中国人や韓国人観光客はいない。地方には外国人観光客用のホテルが林立しているのに、ホテルどころか周辺にも外国人観光客はひとりもいない。これが「見通しの良さ」がもたらした結果であり、私が社会全体が脆弱化した、と言うことの意味です。
合理性を追求し過ぎたあまり、社会に少しでも“菌”が侵入してくると、それが全体に一気に広がって「全員共倒れ」となってしまう。社会のどこにも防波堤がないせいで、“菌”をブロックすることができない。地方にはその地方に合った経済の回し方や人間関係があるべきなのに、それを国の号令一下でなくしてしまったがために社会が弾力性を失った。
徹底した個人主義と競争社会
そもそも、見通しの良さは「善」なのでしょうか。
川が曲がっている。船で木材を運ぶには障害となるから川を真っすぐにしてしまおう――。これが、この数十年の間、“賢い”とされる人が進めてきた“合理的改革”です。
しかし、川は運搬・物流のためだけに存在するのではありません。曲がりくねったよどみにフナが生息し、そこに子どもたちが集まって憩いの場となる。社会にはこうした余剰や凸凹(でこぼこ)が必要であるにもかかわらず、川の価値の多様性を顧みずに運搬・物流、すなわち経済合理性の面だけから「見通しの良さ=善」という社会を作ってきてしまった。この傾向は、徹底した個人主義と競争社会を肯定し、規制緩和を推し進めた1980年代のレーガニズムの影響によって強まり、今なお日本は後生大事にそれを守り続けています。
目先の利益、見通しの良さのみを追い求める姿勢を見直すためには、長期的な視野、すなわちしっかりとした国家観・国家像が必要不可欠です。混沌とした時代には、さまざまな処方箋が唱えられ、乱立する。短期的成功が喧伝される。しかしその多様な処方箋のうち、どれを優先し、取捨選択するのか、その決定の基準となるのは、結局、日本人の価値観・死生観すなわち国家像にしかないからです。
では、新たな国家像はいかにあるべきなのでしょうか。
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