終戦後、朝鮮人を利用して勢力を拡大した共産党 党史には書かれない“不都合な真実”
占領軍に暴行
GHQが朝連の規制に乗り出した背景には、国際情勢の変化もあった。1946年3月、イギリスのチャーチル首相が「鉄のカーテン」演説を行って東西冷戦が顕在化、翌年3月にはアメリカのトルーマン大統領が共産主義封じ込め政策「トルーマン・ドクトリン」を発表する。
その流れの中で、日本は「共産化の防波堤」と位置付けられていく。GHQも反共産主義的な政策が中心となり、その主導権もリベラルな民政局から参謀第2部に移る。そして「2・1ゼネスト」への中止命令を出すのだ。この後、GHQは、260万人の全官公労働者から団体交渉権とストライキ権を剥奪、共産党による組合支配を排除、やがてはレッドパージへと発展するのである。
一方、朝鮮半島では、1948年8月に李承晩を大統領とする大韓民国が、9月には金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が誕生した。朝連は、ソ連の影響下にあった北朝鮮を支持し、「共和国公民」として、日本において北朝鮮国旗を掲げるようになっていく。
「朝鮮の南北に、それぞれ単独政府が成立された直後に、この五全大会(朝連第五回全国大会)はもたれた。そしてその会場では、北鮮国旗をかかげていたので、その撤去をめぐって一時不穏な空気がみなぎったが、築地警察署長は断乎としてこれを撤去させ、開会された」
と、坪井は記す。
他にも宮城県や山口県でも同様の事件があり、逮捕しようとした占領軍に暴行を加えていた。これがGHQを強く刺激したのだ。
なぜ党史にないのか
1949年9月8日、GHQの意を受けた日本の法務府(のち法務省)は、朝連や在日本朝鮮民主青年同盟など4団体に解散を命じた。
「(朝連は)全国各地にわたってしばしば占領軍に対する反抗反対あるいは暴力主義的事犯をひき起しポツダム宣言を忠実に実践して平和なる民主的国家を再建しつつあるわが国民生活の安全に対し重大なる脅威をつくり出してきた」(「朝日新聞」1949年9月9日)
その具体的な事例として、宮城県や山口県の国旗掲揚事件や12月事件、京都での警察官暴行事件、福島県の平警察署襲撃占拠事件、千葉県の国鉄車掌室占拠事件などが挙げられている。
これにより朝連は4年の活動に終止符を打った。その財産は没収され、中央総本部議長の尹槿や韓徳銖、そして金天海を含む19名が公職追放となるのである。
この時、朝連には莫大な財産が残っていた。
没収財産をめぐってその後に裁判が起きている。訴訟記録によれば、日本政府が、朝連および朝鮮民主青年同盟解散時に組織から没収した財産は数千億円にのぼったという。ちなみに朝連側の弁護団は、金英敦、上村進、神道寛次、青柳盛雄、上田誠吉、小沢茂、岡林辰雄、梨木作次郎など、多くが日共の弁護士だった。
さて、日共はこうした朝連との関係について、党史に一行も触れていない。朝鮮近代史専門家の姜在彦は、
「当然日本共産党は在日朝鮮人運動にたいするその指導と、共に闘ってきた歴史にたいして総括する立場にあったと思います。ところがそれがないばかりか、その歴史叙述の中で朝鮮人とかかわる部分を無視し、記録さえもしないのはどんなに考えてよいのか、たいへん理解に苦しむ」(朴慶植・張錠壽・梁永厚・姜在彦『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター)
と、疑問を投げかける。
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