〈鎌倉殿の13人〉義経と弁慶の最期は「吾妻鏡」「玉葉」でどう描かれているのか

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「立ったまま絶命」は美談だが…

 一方、義経は京周辺の寺社に匿われた。一部公家にも支援者がいた。業を煮やした頼朝は数万の大軍を派遣し、寺社内を捜索すると朝廷に申し入れた。そう『玉葉』にはある。

 頼朝が息巻くので法皇は同11月に寺社に向けて「義経を召し捕るように」との宣旨を出す。これで義経は京周辺には隠れられなくなった。

『吾妻鏡』によると、翌1187年2月、義経は山伏に変装し、郷御前と家人を伴い、奧州(現在の福島、宮城、岩手、青森の4県と秋田県の一部)に向かった。人目に付かない山中を移動した。

 義経は16歳から22歳まで育ててもらった奧州平泉(現岩手県平泉町)の藤原秀衡(田中泯、77)を頼った。義経の平泉到着は1187年の春先と見られている。2人は7年ぶりに再会した。

 秀衡は逃亡者の義経を温かく迎え入れた。頼朝を恐れなかった。この時点で秀衡は頼朝との対決を覚悟していた。そもそも秀衡は頼朝と良好な関係ではなかった。秀衡が治める奧州と頼朝が支配する板東(現在の神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県、群馬県、茨城県)は隣接するので、どうしても緊張状態に陥った。

 義経は秀衡に守られるはずだった。ところが義経の平泉入りから約半年の同10月29日に秀衡は病死してしまう。逃亡生活に入った後の義経は悲運続きだった。

 それでも望みはあった。秀衡は他界前、息子たちに対し、義経を大将軍として頼朝と対決するよう命じたのである。たとえ頼朝と戦わなくたって息子たちが味方でいてくれるはずだった。

 だが、秀衡の跡を継いだ泰衡は父の遺言に背き、義経討伐に動く。朝廷を通じて圧力をかけてきた頼朝に屈したのだった。1189年4月30日、平泉の衣川館にいた義経を数百騎で襲撃した。

『吾妻鏡』によると、逃げ場を失った義経は22歳だった郷と4歳の娘を殺す。見知らぬ者に殺されたり、囚われたりするより良いと考えたのだろう。次いで自刃した。その時、31歳。挙兵した頼朝の元へ駆けつけてから10年目だった。

 泰衡の襲撃を受けた際の弁慶ら従者の様子がどうだったのか興味深いが、史書に詳しい記述はない。20人余で防戦したものの、敗北したとあるのみ。弁慶については書かれていない。

「義経を守るため、体に矢が刺さりながら、立ったまま絶命した」という話は日本人的美談だが、これも『義経記』に書かれている話に過ぎない。

「鎌倉殿の13人」は義経と弁慶の最期をどう描くのか。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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