〈鎌倉殿の13人〉義経と弁慶の最期は「吾妻鏡」「玉葉」でどう描かれているのか

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 三谷幸喜氏(60)が脚本を書いているNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が第20話を迎える。菅田将暉(29)の源義経が、大泉洋(49)扮する源頼朝に追い詰められる。史書には義経の死がどう書かれているのか。『吾妻鏡』や『玉葉』などを確認してみたい。大河では佳久創(31)が演じている武蔵坊弁慶の活躍はあるのか。

 これまでの「鎌倉殿の13人」には義経の従者である弁慶の見せ場がほとんどなかった。義経と弁慶が登場する過去の大半の物語とは異なる。物足りなく感じている人もいるかも知れない。

 だが、それは脚本を書いている三谷幸喜氏が史書を重んじている表れに違いない。史書には弁慶に関する記載がほとんどなく、まして怪力の猛者などと書かれたものは存在しない。

 弁慶が義経の頼もしい従者ということになったのは室町時代に書かれた軍記物語『義経記』以降。義経をヒーローにした原点でもある。だが、この書の真実性への疑問については民俗学者の柳田國男や数々の歴史学者が早くから指摘している。

『義経記』の弁慶は生い立ちのエピソードからしてウソっぽい。熊野別当(現在の和歌山県にある熊野三山を統括する役人)が、朝廷の大納言の姫をさらい、生ませた子が弁慶とある。母の胎内に18カ月もいて、誕生時には髪が肩まであり、奥歯まで歯が生えそろっていた。これを信じろというのは無理がある。

 さらに幼いころから暴れん坊で、四国での修行の後、播磨国(現在の兵庫県南部)の寺の堂塔を炎上させてしまったという。その後、元服前で牛若丸と名乗っていた義経と京の五条天神の近くと清水寺で戦い、義経が勝った。以降、義経の従者となったとしている。面白過ぎて、やはり信じがたい。

 一方、鎌倉幕府の唯一の公的記録と言える『吾妻鏡』には弁慶の名前がないに等しい。1185年11月の記録に義経の従者だったことが2回にわたって記されているのみ。どんな人物だったのかは不明だ。分からないからこそ人となりを脚色しやすかったのではないか。

不運続きの義経

 ここからは史書に基づき、義経の死までを追いたい。義経が後白河法皇(西田敏行、74)から「頼朝追討」の宣旨を受けたのは1185年10月18日。壇ノ浦の戦いから約半年後だった。大河では第19話で描かれた。

『玉葉』によると、それから1カ月も経たぬ同年11月11日には頼朝に対し、「義経追討」の宣旨が下った。朝令暮改でメチャクチャなようだが、法皇側にも事情があった。

 まず義経に宣旨を求められたら出さない訳にはいかなかった。法皇の対応に義経たちが不満を抱き、暴れ始めたら、手の施しようがなかったからだ。

 当時、京には義経に対抗できる武力が存在しなかった。朝廷は丸腰。なにしろ検非違使(京の治安維持を司る役人)は義経だったのである。

 ヘタに義経に逆らうと、法皇らが鎮西(現在の九州方面)に連れ去られてしまうのではないかと朝廷は心配した。そこで法皇がひとまず宣旨を与え、義経を納得させようとした。

 だが、義経は兵をほとんど集められなかった。大河の第19話の通り。頼朝が相手では勝ち目がないと見られたことなどが理由だった。義経の人望の薄さも影響した。

 一方、頼朝も手を拱いてはいなかった。「義経追討」の宣旨が下る前の1185年10月29日には大軍を率いて京を目指し始めた。約200騎しか兵力のなかった義経は勝てるはずがないので、同11月3日に鎮西へ向かう。

 だが、船で鎮西に行こうと港のある摂津国(現大阪市)に入ったところで、多田源氏の武士たちに襲われた。頼朝、義経と同じ清和天皇の子孫だが、仲が良くなかった。源氏同士の関係は本当にややこしい。この襲撃により義経は多くの兵を失う。

 義経の悲運は続く。同11月6日、残った一行と出航しようとしたところ、突風が吹き、船が転覆してしまう。命拾いしたのは義経と郷御前(三浦透子、25)ら数人のみ。もちろん出航は中止。ここから逃亡生活が始まった。

 義経の災難を朝廷の右大臣・九条兼実(田中直樹、51)は「国家の大慶」と喜ぶ。翌7日には義経の検非違使などの任が解かれた。一時は朝廷をあげて義経を持ち上げていながら、恐ろしいまでにクールな対応だった。

 その10日後の同11月17日、義経と別れて間もない静御前(石橋静河、27)が大和国(現奈良県)の吉野山で捕らえられた。交通手段も通信機器も古典的だった時代にもかかわらず、すこぶる早い捕縛だった。頼朝が義経と周囲の人間たちを逃すまいと躍起になっていた表れにほかならない。

 静はいったん京へ護送された後の翌1186年3月1日、鎌倉へ送られた。母・磯禅師と一緒だった。義経の行方を厳しく問い質されたものの、のらりくらりとかわす。ほどなく静の妊娠が判明する。

 同4月8日、静は強く求められて頼朝と政子(小池栄子、41)の前で舞を披露した。鎌倉の鶴岡八幡宮の回廊だった。その際、静は義経を思う気持ちを表したと思しき歌を吟じる。これに頼朝は怒る。義経が大嫌いだったのがよく分かる。

 だが、政子が静を庇う。頼朝が流人の身だったころの自分の気持ちと静の心情を重ね合わせた。義経が落ちぶれたからといって、静が思いを捨てたら、そのほうがおかしいと頼朝に説いた。源義高(市川染五郎、17)を救出しようとした件といい、この夫婦は政子のほうが正論の人だ。

 同7月29日、静は出産する。頼朝は「女子なら助けてもいいが、男子なら殺せ」と命じていた。将来を恐れた。言うまでもなく自分への復讐である。はたして生まれてきたのは男子だった。

 その子を殺すために頼朝の雑色(雑用担当者)が取り上げようとしたが、静は泣いたまま抱きしめて離さない。やむなく磯禅師が子を奪い取った。祖母である磯禅師も辛かっただろう。政子が頼朝に助命を訴えたものの、子は鎌倉の由比ヶ浜に沈められた。

 1カ月半後の同9月16日、静と磯禅師は故郷の京に帰された。気の毒がった政子と大姫(南沙良、19)は数々の宝を持たせたという。哀れな静のその後は分かっていない。

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