刃渡り12センチの「工作用クリ小刀」で4人も殺害できるのか【袴田事件と世界一の姉】

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ひで子さんも感謝

 平野さんは日本電信(東京都港区)に勤めていたが、まだ日中国交回復前の中国を訪問したことで防衛庁から情報提供を強要されたり、会社側から不当な配転などの圧力をかけられ最終的に解雇された。平野さんは「不当解雇だ」だと裁判闘争を展開、総評系の労働者団体などが支援したが、1973年に和解が成立した。中国物産の行商などをしながら巖さんの支援していた平野さんの次の就職先が食肉処理場だったのだ。

 正義感は強かったが直線的な性格が災いし、弁護士団や支援者とも激しく意見対立して衝突。支援団体を追い出されたりもした。1993年には弁護団の安倍治夫弁護士(故人)が新証拠としての裏木戸鑑定と浜田鑑定書(これらについては後述する)を批判する文書を静岡地裁に提出することを知り、「暴力以外のあらゆる手段を使って妨害(本人談)したが提出されてしまった」(本人談)という。

 平野さんは「市民の会」の機関誌「無実/第7号」(2004年11月)に、「オープンな意見を戦わせるということは、足を引っ張り合うことではなく、当事者の利益(再審・無罪を勝ち取ること)を優先にして厳しい議論をすることである。これに耐えてこそ“難敵”の最高裁から勝利を勝ち取ることができると思う」を結んでいる。支援に関わってからの静岡地裁と東京高裁の巖さんの再審請求は認められなかったが、高裁の棄却について「最初に結論(棄却)があって、後から理屈をつけたとしか思えない」と批判し、最高裁での特別抗告審を戦う決意を書いている。

 亡くなった翌年の2007年4月21日には、東京都豊島区で「平野雄三さんを偲ぶ会」が開かれ、妻・君子さんも招かれた。また、巖さんを支援し続けた「トクホン真闘ジム」の佐々木隆雄会長(故人)は、この時の会報に「一直線の男」と題して「袴田さんが無事獄中から生還したら、うちのジムのリングの上に大の字になって一緒に酒を飲み語り明かそう。平野さんとはよくこんな夢を語り合ったものだ」などと記している。

 剛毅だった平野さんについて、ひで子さんは「本当に一生懸命に豚で実験をやってくれました。うちにも来てくれて、私はご飯を炊いとくだけで、平野さんが肉を持ってきてくれてしゃぶしゃぶをやったりしましたね。君子さんは『夫はすぐ人と喧嘩してしまうんです』と困っていました。雄三さんが亡くなってからは、君子さんも支援に参加してくださり、私が上京した時も家に泊めていただいたり、君子さんの故郷が島根県なので、一緒に出雲旅行をしたりしましたよ」と話し今も感謝している。

 世紀の冤罪事件、様々な人や市民団体が獄中の巖さんを懸命に支援してきたことを改めて痛感する。

「法廷証言は嘘」と悔いる老女

 クリ小刀について、静岡県警の捜査報告書はこう書いている。

〈被告人袴田を逮捕の上、調べたところ、41年3月下旬ころの日曜日に、沼津市に遊びに行った時、菊光刃物店で500円で購入したことを自供し、その裏付けとして、菊光刃物店の女主人が被告人を確認するとともに、店舗の位置、店内の様子などが自供と一致し、本件犯行の凶器の裏付けが取れた。〉

 だが、巖さんが菊光刃物店で購入したという証拠は全くなく、自供のみが根拠。自供内容がころころと変わるなど不自然な部分が多かった。

「サンデー毎日」2020年5月10・17日号に「55年目の重大新証言 凶器のクリ小刀は売られていなかった」のタイトルで驚きの記事が載った。取材・執筆はジャーナリストの青柳雄介氏。以下は記事の概略。

 菊光刃物店の店主の妻・高橋みどりさんに、捜査員が「見覚えはあるか」と20枚以上の顔写真を見せた。みどりさんが「見覚えがある」として袴田巖さんの写真を選んだということになっていた。後の裁判でも検察側証人として、みどりさんは「見覚えのある顔があった。写真を裏返したら袴田巖と書いてあった」と証言している。

 しかし当時、学生で店を手伝っていた長男の国明さんは、「見覚えのある顔はないと母親が警察に答えていた」と青柳氏に証言している。病床に伏しているみどりさんは、この数年前、息子に対して「本当は袴田さんに見覚えがなく、思っていることとは違うことを証言してしまった。本当は袴田さんを見ていないんです」と告白し、自身の証言が巖さんを死刑判決に導いた一因になったことに贖罪の気持ちを抱いているという。さらに、店で売っていたクリ小刀は4種類あったが、当時、刃渡り13・5センチの製品しか売っておらず、犯行に使われたとされた刃渡り12センチの製品は置いていなかったとも証言している。

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