中田翔、プロ15年目で初の送りバントに私はなぜ驚かなかったか【柴田勲のセブンアイズ】

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1軍再昇格を果たす

 巨人・中田翔がなにはともあれ“結果”を出した。打撃と首の不調で4月22日にファームに降格したが、9試合に出場して4本塁打、8打点を挙げる成績で5月10日に1軍に再昇格した。

 その日のDeNA戦(新潟)で2安打し、12日の同戦(横浜)では右犠飛を放って勝利に貢献した。さらに13日の中日戦(東京ドーム)では4回無死一、二塁から送りバントを成功させて得点を呼び込んだ。

 1点リードの8回には救援の山本拓実から初球148キロを捉えて左中間席中段まで運んだ。貴重な2ランとなった。さらに翌日には7回1死満塁で祖父江大輔のスライダーを左翼席に逆転となる満塁弾を放った。
 
 6回の無死満塁では甘い球を打ち損じて凡退し反撃ムードに水を差していた。この回も4番の岡本和真が申告敬遠されて迎えた打席だった。悔しさを吹き飛ばした格好だ。

プロ15年目にして初の送りバント

 冒頭で記したがプロは結果がすべてだ。「すごい球を投げる投手だ」とか、「打球を遠くまで飛ばせる」と評価されても結果を出さなきゃ意味がない。

 前回、今コラムで中田の打撃フォームに関して思うところを指摘した。まだまだ物足りない。いまのままだとカーブやスライダーといった変化球にはタイミングが合うが、速球に対してはどうかと見ていた。
 
 それでも何度も言うが結果を出した。今後対戦投手は速球で押してくることも考えられる。そのへんに注目していきたい。

 中田にとって13日、犠打の後の一発、そして14日の満塁弾は現役を引退して足跡を振り返った時、一番の思い出話になるのではないか。

 送りバントを決めたのはプロ15年目にして初めてだったという。結構な話題となったが、このバントのシーンを見た時はなんとも思わなかった。何度かやっていると思っていた。後で知ったが、日本ハム時代は歴代監督たちが主砲の中田に遠慮してサインを出さなかったのだろう。

 巨人では阿部慎之助、丸佳浩もやっているし、第一、V9時代には長嶋(茂雄)さん、王(貞治)さんもやっている。何回か見ている。8、9回あたりに無死一、二塁の好機をつかむと王さんが自分で意図して送りバントを決めて4番の長嶋さんに回す。こうなると敬遠されることもあったが当たり前のプレーだった。
 
 中田は14日、一度は満塁の好機で倒れ、その後に申告敬遠を受けての満塁弾である。いい体験になったはずだ。

「思い出の一打」

 私は「思い出の一打は?」と聞かれても答えられない。普通に考えれば、1963年5月25日の広島戦(広島球場)で長谷川良平さんから放った一発になる。

 スイッチヒッターに転向してプロ入り初本塁打を左打席で右翼席に運んだ。でもこの時は無我夢中でバットを振っただけで、勝ち負けも覚えていない。むしろ翌26日にも大石清さんから本塁打を放ってレギュラー獲得の足掛かりをつかんだことが記憶として残っている。

 思い出の本塁打…1971年10月15日の日本シリーズ第3戦(後楽園)で王さんが山田久志から放ったサヨナラ本塁打だ。完封される目前だったが、私が9回裏1死から四球で出塁し、2死後に長嶋さんが中前への安打でつないだ一、三塁から飛び出した。

 山田はマウンドにうずくまって動くことができなかった。巨人はシリーズの流れを変えて7連覇を達成した。

プラス思考で

 中田に本格復活の兆しが見えたと思ったら、今度は4番・岡本和真がおかしくなってきた。なかなかうまくいかない。

 中日3連戦は無安打だった。ボール球に手を出している。追いかけている。もっとどっしりと構えて甘い球を見逃さない。坂本勇人、吉川尚輝が離脱して、「オレがやらなきゃ」と責任を感じているのだろう。

 でも丸が好調を維持しているし、中田もいる。4番が打てなくなっても勝ち越した。悪いように考えず、プラス思考でいってもらいたいと思う。

 5月24日からは交流戦が始まる。中田はパ・リーグの生きた情報を豊富に持っているはずだ。2本塁打を足掛かりにしてチームを引っ張ってほしい。

 17日の広島戦から左肩甲骨の骨挫傷で離脱していた吉川尚が1軍に復帰する。打率3割4分1厘と不動の1番打者が帰ってくるのは大きい。なんせ吉川尚の離脱中は3勝6敗と負け越している。

 最後に菅野智之だが、復帰戦となった12日のDeNA戦(横浜)では外角低めへのボールが3、4球あった。以前は1球だけのこともあった。今後どんどん増やしていくべきだ。まだまだベルト近辺の球が多いが、外角低めへの投球は基本だ。

 今回は私の思い出話が少し多くなってしまった。次回は3位から浮上した巨人の戦い方を書きたいところだ。
 (成績は16日現在)

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長を務める。

デイリー新潮編集部

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