徴用工で問題となった「朝鮮人班長」による着服 賃金自体は当時としては高額

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「徴用工はばくち好き」

 ちなみに炭鉱でなく、広島の東洋工業で徴用工として働いた鄭忠海の『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)では、月収が140円と記載されている。これもかなりの高額である。

 炭鉱会社の給与台帳などを見ると、賃金は職能給がほとんどで、朝鮮人徴用工にも日本人徴用工にも、平等に支払われていた。日払いのところもあったが、大手は翌月払いが主流だった。

 そして強制預金の制度も各地に見られた。それは「逃亡防止」のためでもあったが、せっかく稼いだ給料をばくちでスッてしまう者も多かったからではないか。

 1938年11月26日の「長崎日日新聞」では、長崎県の端島炭鉱の12名の朝鮮人炭鉱夫が、朝鮮で流行していた花札で1勝負につき10銭の賭博を開帳し、二百数十回にわたり勝負をして、検挙されたことが報じられている。

 三菱の佐渡金山で、朝鮮人労務者の通訳だった人物への聞き取りでは、

「当時、若くて血気盛んな半島出身の徴用工たちは、ばくちが好きで、勝ったものはよいが、負けたものは家族への仕送りもできなくなり、あとで問題となるので、度々、ばくち狩りをやっていた」

 と語っていた。

賃金持ち逃げ

 支払い方法は、三菱端島炭鉱なら個々の労務者が、給料日には判を持ち、列に並んで給料を受け取りに行ったが、労務動員者の場合、一団に朝鮮人の班長がいて、班の給料をまとめて受け取り、班長が各人に配布することが多かった。

 この仕組みが、各地の炭鉱、金属鉱山でしばしば問題を生じさせている。

 例えば、日本文化自由委員会発行「自由の旗のもとに」の創刊号(1952年9月)に、「現炭労委員長田中章伝」と題する記事がある。

 田中章委員長は、戦前の名前を田中長求と言い、樺太人造石油株式会社内淵鉱業所へ朝鮮の大邱地区から働きに来た100名の朝鮮人徴用工の一人だった。彼は自分の班の徴用工の賃金を一括送金する責任者だったが、徴用工の一人が落盤事故で亡くなり、その兄が遺骨の受け取りにやってくると、長求が賃金の一部を送っていないことが露見した。寮長が問い詰めると田中はあっさり白状して、みなにボコボコに殴られたという。ちなみにこの人物、戦後に勤労奉仕を金銭で賠償しろと会社に迫り、朝鮮民族の英雄として再評価されている。

 また、秋田朝鮮総連支部長の李又鳳は「花岡鉱山の思い出」の中で、

「橘寮の寮長が皆の通帳と印鑑をもって姿をくらまし大騒ぎになった」(『在日一世が語る 日帝36年間 朝鮮民族に涙の乾く日はなかった』「在日一世が語る」出版会)

 と書いている。そして会社から、

「すでに寮長に金を払ってあるから、二重に払うことはできない。今会社の方でも警察の方でも犯人を手配して捜している。(略)少し日にちをくれ」

 と、言われた李たちは、

「朝鮮人は解放されたわけだから、国際的問題である」(同前)

 と、GHQに訴えた。

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