徴用工で問題となった「朝鮮人班長」による着服 賃金自体は当時としては高額
500名募集のところに10倍の応募が
常磐炭鉱で採炭を行った入山採炭株式会社の賃金について、長沢秀はこう書いている。
「朝鮮人採炭夫の場合には一日の賃金が一円八十銭から一円六十銭になり、一か月に二十日間働けば月給は三十六円から三十二円にはなった。しかし、この月給から食費、所得税・厚生年金保険料・作業服代、地下足袋代・雑費などが差し引かれたのである。さらにこの残金から炭鉱会社内部の糧植(購買所)での伝票(通帳)を使っての日常の買物代や会社の強制社内貯金が差し引かれていたので、朝鮮人労働者が朝鮮の故郷に送金する余裕は全然なかったか、あってもわずかなものであった」(「常磐炭田における朝鮮人労働者について」「駿台史学」第40号)
朝鮮人労働者に、わずかな小遣い銭以外、現金を持たせなかったのは、逃亡防止のためだったという。また、その賃金は「会社の労務課の寮の係員や寮主がピンハネし、横流しした」(同)こともあったそうである。
問題が多かったこの常磐炭鉱でも、当時の朝鮮半島では大人気だったようで、磐城炭鉱株式会社が「慶尚南道の四つの郡で募集をしたところ、五百名募集のところに十倍の応募があった」(同)とも記されている。
高給取りだった炭鉱夫
それでは、ほかの炭鉱はどうだったか。
韓国映画「軍艦島」で「地獄島」として描かれた長崎県の端島について、朝鮮人坑夫は、こう語っている。
「私共の仲間のうちには一年に千円位の貯金をする者はザラにあります」(「長崎日日新聞」1941年3月1日)
福岡県嘉穂郡の明治鉱業株式会社の朝鮮人募集要項には、日割りで4円、高い人で7円、最低3円とある。
また「聯合会加盟炭鉱移入朝鮮人坑夫就業状況調」(1939年11月25日)には、採炭夫は1日平均4.6円で、機械夫になると平均が日当で3.24円に下がり、また工事夫になると2.97円とある。
当時の巡査の初任給は45円だった。また会社の事務職は75円程度だ。常磐炭鉱を別にすれば、炭鉱では月収100円前後になるから、当時としては高給だったといえよう。
ただし、炭鉱の労働環境は悪かった。戦時経済の無理な増産体制の中で、ガス爆発や落盤など事故が多発し、採炭は極めて危険な仕事だった。また日本人男性が戦地に赴く中、朝鮮人は炭鉱の貴重な労働力だった。このため高額の賃金が用意されたのである。
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