徴用工で問題となった「朝鮮人班長」による着服 賃金自体は当時としては高額
共産党には惜しげもなくカンパする朝鮮人
朝鮮人は炭鉱労働者に限らず、共産党の同志には惜しげもなくカンパをしたようだ。そもそも寺尾は、府中刑務所に徳田球一たち共産党幹部の出獄を迎えに行った時にも、見ず知らずの朝鮮人に生活費をカンパしてもらっている。
炭鉱では朝鮮人たちがさまざまな活動を繰り広げていた。大山良造の「九州地方朝鮮人強制連行の証言―2―死をかけた抵抗」(「部落解放」59号)にはこんなくだりがある。
「北海道では、金日成将軍指揮下の祖国光復会の工作員が、各炭鉱に潜入、解放直後直ちに全道的組織が結成され、帰国船の要求や天皇制廃止の目標が出されている」
連合軍総司令部(GHQ)のSummation No.1にも、北海道や常磐など一部地域の炭鉱で処遇改善を求めてストライキが多発し、不穏な空気に包まれたことが記録されている。
だが、産炭地の朝鮮人労働者の多くは次々と帰国していった。1945年8月末までに10万2千人、9月末に6万7千人、10月末に3万7千人、11月末に1万7千人、12月末には773人と、この年に22万4千人近くが帰国の途についたのである(「石炭労働年鑑」)。
炭鉱の賃金体系
この朝鮮人労働者たちが帰国する際、「未払い賃金」があり、それを補償しろというのが、近年、韓国が主張し始めた「徴用工問題」である。この未払い賃金はどのように発生し、どう処理されたのか。実はここに朝連が大きく関わっていたのである。この問題に踏み込むには、まず当時の炭鉱での賃金体系や支払い方法について知らねばならない。
共産主義者・金斗鎔は、『朝鮮近代社会史話』(郷土書房)の中で、自身が見聞した常磐炭鉱(福島県、茨城県)について、
「労働現場は大変過酷なものであり、虐待もあり、給料は貯金という形で抑えられ、逃亡できないようになっていた」
と、書いている。
龍田光司の「常磐炭田朝鮮人戦時動員被害者と遺族からの聞き取り調査」(「在日朝鮮人史研究」39号)には、当時の賃金についての証言が出てくる。
「月給は一ヶ月ごとに受け取り、多く受け取ろうと少し受け取ろうと、少しずつしか与えられなかった。残ったものは貯金させられた。三〇〇円~五〇〇円ずつ家に送ったことがあった。遊んで全部使ってしまう人もいた」(韓広煕の証言)
「月給は一月四〇円程度受け取った。送金は一回に二〇円送ることもあれば、逃亡する時に使うのに必要なので貯めて置くこともあった。(略)炭鉱を出るとき六〇〇円もらって出てきたのに三〇〇円を誰かに貸して三〇〇円だけ持って来た」(李七星=仮名=の証言)
「賃金は月一五円ぐらいだった。送金は一五円ぐらい人に頼んで送ってもらった。送金が着いたかどうか帰ってから聞いたが受け取っていた」(宗甲奎の証言)
「賃金はもらっていない。ほんの少し貰った。送金はしなかった」(李興淳の証言)
「賃金は貰わない。マッコリーいっぱいにもならない額だった。動員された時、賃金については説明されていたかどうかはわからない。炭鉱に行くと言うことは聞いていた。(略)家への送金は寮長が送ると言っていたが、帰国後家族に聞くと誰も受け取っていないと言っていた」(全炳龍の証言)
まちまちな話で、実態がわかりにくい。
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