「アンドレの靴下も作ってあげて」 ジャイアント馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントの絆を物語る逸話(小林信也)
木槌で馬場の手を
馬場をアメリカに送り込み、カネの取れるドル箱に仕立てようともくろんだ力道山は、馬場に命じた。
「海外に出たら空手チョップを武器にしろ」
柳澤はこう記している。
〈打つ面を三角に変形させた木槌で馬場の手を何度も叩いた。(中略)何度も繰り返すうちに、やがて破れた皮膚が固まり、丈夫な手ができあがる〉
61年7月1日、馬場は芳の里、鈴木幸雄と三人で羽田空港からロサンゼルス行きの飛行機に乗った。
アメリカではグレート東郷に厳しく仕込まれ、やがて東海岸に本拠を移すと短期間で全米屈指の敵役レスラーにのし上がった。
東郷は馬場に紅白の着物を着せ、高下駄で五番街を歩かせた。多くのニューヨーカーが自分の後についてくるのが馬場には愉快だった。後にNHKラジオの番組で馬場が語っている。
〈ニューヨークに行って、自分の名前が売れてきましたね。試合をしても負けなくなった。(中略)「俺はもっと大きくなってやろう」と、その時ほど胸を張って歩けたことはないですね。今までは「小さくなりたい、小さくなりたい」と思ってましたからね〉
そして渡米から8カ月後の62年3月9日、人気絶頂のNWA世界王者バディ・ロジャースに挑戦する。試合はわずか10分、クレイドルホールドと4の字固めを食らって負けた。しかし、ロジャースは馬場を高く評価し、その後も挑戦の機会を与えられた。ゴング誌の取材にロジャースは次のように語っている。
「あの大きな体でスピードがあるのにびっくりした。(中略)本当にいいレスラーだったよ。もしあの当時、あのままババが日本に帰らずにアメリカに永住していたとしたら、おそらく私を倒してNWAの世界チャンピオンになっていただろう」
社交辞令もあるにせよ、小さな日本人でなく、大きな馬場を叩きのめす光景はアメリカ人を狂喜させた。馬場は恰好の敵役だった。
だがこの高評価と人気が、力道山の激しい嫉妬をあおった。かねて熱望しながらかなわないロジャースへの挑戦を馬場が実現した。ほどなく自分の地位を馬場に奪われる未来を力道山は恐れた。そして馬場に帰国を命じた。その後の馬場の日本での活躍は広く知られる通りだ。
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