「アンドレの靴下も作ってあげて」 ジャイアント馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントの絆を物語る逸話(小林信也)
野球の夢を奪われた馬場正平の元に周囲からさまざまな誘いがかかった。例えば、キャバレーのドアマン。これは用心棒兼「客寄せ役」だった。映画俳優の誘いはおそらく悪役の想定だろうと馬場は思った。いずれも、野球で活躍できなかった悔しさや後ろめたさを払拭できる道ではない。そんな時、馬場の頭に力道山の言葉が浮かんだ。
「早く野球をやめて俺のところにこい」
2年前のオフ、巨人軍創設25周年の集いにゲストで来た力道山が馬場を見て声をかけたのだ。ふと思い立って馬場は、日本橋浪花町のプロレスセンターに力道山を訪ねた。1960年3月のこと。その日は力道山が渡米中で会えなかった。この時の経緯を、作家・柳澤健が労作『1964年のジャイアント馬場』で書いている。
〈道場にはプロ野球からプロレスに転身した竹下民夫(後に国際プロレス)がいた。竹下から「プロレスはカネになるよ。豊登の年収は二四〇万円だ」と教えられて、馬場は俄然その気になった。一九六〇年当時の大学初任給は一万六〇〇〇円ほど〉
1カ月後、力道山が帰国した翌日、再び道場を訪ねると、力道山は言った。
「足の運動を50回やってみろ」
先輩をまねてヒンズースクワットを50回繰り返すと、力道山が目を細めて「もう50回」と促した。馬場がこれも楽々こなすと、「よし、明日から来い」となった。
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